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教育格差の社会学 (有斐閣アルマ)

教育格差の社会学 (有斐閣アルマ)

章立ては次のとおり。第1章「学力格差の社会学」(耳塚寛明)、第2章「カリキュラムと学力」(山田哲也)、第3章「教育機会の均等」(小林雅之)、第4章「学校から職業への移行」(堀有喜衣)、第5章「社会化と逸脱」(矢島正見)、第6章「ジェンダーと教育」(小玉亮子)、第7章「国際教育開発の社会学」(浜野隆)、第8章「教育格差と福祉」(白川優治)である。教師を目指す学生向けの教育社会学のテキストが数多いなかで、こうした必ずしも教員養成にこだわらないテキストが出版されるのはとても嬉しい。
ところで、編者による「はしがき」にこのような文章がある。

知識は、何者かが、この世界をある方法によって観察して切り取って整序した「事実」ないしは「世界観」にすぎず、“真実”とは異なる。観察者が異なれば、そして観察する方法論が異なれば、そして事実の組み合わせ方(整序)が異なれば、そこには違った世界が見えてくる。
はしがきii頁

この文章を読み飛ばしてはならない。なぜならば、この知識観こそが本テキストが依拠する教育社会学の特徴の一つだからである。気になった学生は第1章、第2章を熟読してみよう。
さて、第2章はバーンスティンを紹介している。ここではそのなかで、日本版「一般スキル・モード」の説明を引用する。

ペダゴジーのモデルにはいくつかのバリエーションがあり、バーンスティンはそれを「モード」という概念で把握する。一般的スキル・モードは、パフォーマンス・モデルの派生型の1つで、職業訓練の領域で登場したペダゴジーである。ここでいう「一般的スキル」とは、絶えず変化する労働市場の要請に応える柔軟で汎用性の高い能力や訓練可能性を意味する。
41頁

日本の高等教育においても、この十数年で一般的スキル・モードは着目されてきた。筆者も指摘するように「人間力」や「社会人基礎力」といったキーワードで示されるものである。バーンスティンや筆者が一般的スキル・モードに対して慎重な姿勢を取る一方、一部の教育社会学者はこうした「力」を獲得させることこそが高等教育の新たな使命であるとして研究を進めている。
「訓練可能性」の訓練はいかにして可能かという問いはさておき、ここでの論点は日本の高等教育のそれがバーンスティンの言うモデルとは少し異なっているかもしれないということである。一般的スキル・モードは見かけはコンペタンス・モデルであるものの、その実態はパフォーマンス・モデルである。だとすると、そのコストは低いはずである。本来のパフォーマンス・モデルは一斉教授の知識伝達、紙のテストによる到達度の評価という特徴を持つ。しかし、現在の高等教育の「力」獲得系(?)プログラムは伝統的な教授法よりも明らかにコストが高い。大教室に500人を詰め込んでの講義ではなく、少人数の履修者による双方型、体験型のプログラムである。これはまさしくバーンスティンが明るみにするところのうわべだけのコンペタンス・モデルであるものの、しかし、そのコストはコンペタンス・モデルと同じく高いはずなのである。各高等教育機関は既存の予算では賄うことができず、競争的資金への依存、教職員のさらなる努力、卒業生やボランティアの力を借りるなどによってそうしたプログラムを実施している。
こうしたモデルとの捻じれは初等中等教育の一般的スキル・モードでは生じていないのだろうか。気になるところなのだ。