児島功和先生から頂きました。ありがとうございます。
[rakuten:book:16486799:detail]


どの論考も勉強になるものばかりである。「強い個人」の想定を注意深く避けつつ、〈学校から仕事へ〉〈離家〉〈家族形成〉といった「大人への移行」の諸側面の「相互に結びついたより糸」のあり方を明らかにした7章までの論考はもちろんのこと、ラポールの性格と調査との関係を論点とする8章、倫理問題を扱う9章、この2つの方法論の章もまたとても勉強になった。

「若者にとって意義のある学習・成長の場としての大学を構想する手がかりを得たい」という本章の課題にひきつけるとき、最も参考になるのは下田さんと川本さんの大学生活である。大学が不安定化する現代社会を若者が渡っていくために必要な力量をいかに形成するのかを考えるとき、アイデンティティ資本概念(その中でも「自我の力量」)は多大な示唆を与えてくれる。ごく一部の大学生にとってのみそうした力量形成が可能な場として大学があるのではなく、自分からは「動けない」多くの大学生にも平等にそうした機会が保障される必要があろう。
275頁(第7章 若者は大学生活で何を得たのか?)



私がもやもやと考え続けていた大学のあるべき姿のひとつが明瞭に示されている。「自我の力量」形成の重要性はよくわかる。ただ、自己肯定感、内的統制感、批判的思考、目的に対してそれを実現する力などを意味するという「自我の力量」を増やすことそれ自体を教育目標に据えることはとても難しい。当然、評価することも厳しい。「あなたの『自我の力量』はこの水準に到達したのでA評価です」というのは考えにくい。無理にやってしまうと「社会人基礎力」養成プログラムのような、内容のない「主体的能力」の追及になりかねない―バーンスティンが言う、一般的スキル・モードはコンペタンス・モデルとして誤解されやすいという例である。
そして、「力量」とは何だろうか。私は「能力」という表現を避けたいときに、なんとなく「力量」を使ってしまうことがある。教育学でよく見かける表現であるものの、適切に説明することがどうも困難である。手元の教育学用語事典を引いてみても、「能力」はあるものの「力量」はない*1

ここからわかるのは、調査対象者が困難のまっただ中にあり、現在の状況から抜け出せる糸口がつかめない状況にあることでる。そして、そうした彼女の様子に対して、インタビュアーは思わずコミットメントを申し出ている。
303頁(第8章 調査におけるインタビュアーと調査対象者のかかわり)



桜井厚のライフヒストリー論としては、こうしたインタビュアーと調査対象者とのラポールは特に問題はないのだろう。場合によってはオーバーラポールでさえ必要なのかもしれない。しかし、同時に、私自身が過去に実施したインタビュー記録を振りかえったり、他の研究者が行うインタビューに同行したりする際に感じる、インタビュアーの方が率先して「作品」を作っている、インタビュアーが「作品」を作りがいがためにさまざまな営み(たとえば、私も会話の中で調査対象者と同じ趣味を持ち出すことがある)をしてしまっていることに対する引っかかりはどうしても拭えない。ないものねだりに過ぎないけれども、インタビュー拒絶に至る理由がそうした営みを理由とするものかどうかを分かりたい。

*1:私はかつてから「寄り添う」という表現を理解したいと願い続けているのだけれども、これもまた難しい。