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右の写真は今日の大学通りの桜である。雨に打たれて少しさみしい。




さて、毎年この時期、私は大学で学ぶことの意味を問う文献を復習することにしている。最近出版された大学活用術のようなhow to本も悪くはないけれども、読み継がれてきたものから得ることも大きい。

大学でいかに学ぶか (講談社現代新書)

大学でいかに学ぶか (講談社現代新書)

いま私の手元にあるものは第75刷である(第1刷は1966年発行)。装丁もここに表示されているものではなく、現在の講談社現代新書のものである。
著者の増田四郎は苦学して旧制東京商科大学を卒業、1960年代には学長を務めた人物である。ブログのタイトルの「一介の老書生」は著者がまえがきの部分で謙遜して自らを評した言葉である。一橋は上原専禄、増田四郎、阿部謹也…、という歴史学の系譜も誇りなのである。

大学で学問をする、勉強するということは、中学や高校でのいわゆる勉強とは、その意味がちがうし、また、ちがわなければならないのです。
(大学の―二宮追記)教師は、どんなばあいにも、押し売りは許されません。ただ、長いあいだ研究して、その教師が到達した立場から、自分の一貫した考え方を講義するだけです。それは、その教師が研究しているあることの、一つの考え方をすじみちをつけて述べるだけなのです。つまり、自分の説とはちがった考え方が、ほかにいくらでもありうるという前提のうえに立って講義するわけです。
では、あなたがたはそうした講義を聞いて、どういう受け取り方をしなければならないか。
13-14頁

私は毎年、ある講義において履修者の皆さんに一橋の不満を書いてもらっている―約250人×3つほどの不満点×数年分、膨大な不満が寄せられているのだ(笑。回答のなかには大学における勉強の意味を理解することに到達していないと思われるものが複数ある。増田が丁寧に説明するような前提を理解していないと、大学の講義はどこか不自然なものに見えてしまうかもしれない。どのような受け取り方が望ましいとされたのか、ここでは紹介しない。答えを求める方はこの本を読んでほしい。

荻窪の先生宅の近くに下宿していたわたしが、講義の日には先生といっしょに本をもち運ぶことになりました。
一反ぶろしきのような大きなのに本を包んで学校へもっていき、もって帰るわけです。ある日、荻窪駅におりたころ、かなりの雨になりました。そのときの会話ですが、
「おい、ぬれないかね。」
「大丈夫です。」
「おまえのことじゃない。本がだよ。」
わたしはハッとしてあわてて、自分はずぶぬれになりながら、本にかさをさしました。
156-157頁

学生に対する嫌がらせだとか、本なんてまた買えばいいだろうとか、現代の高みから言うのは簡単である。しかし、大学は本を大切にするという習慣をいまだに(?)持ち続けている。本を読むことが嫌いでは済まないし、本イコール情報の断片という理解では困るのだ。また、本として残されているからこそ、私は書架を眺めて数年ぶりに増田の本を引っ張り出して読み直すことができている。PCの中に電子ファイルとして残しておいた場合、果たして読み直そうと思うに至っただろうか―もちろん、本を電子ファイル化して保存する意義は十分にあるので、必ずしも全否定するわけではない。

わたしのゼミナールの先生は、同じ問題であっても、ある学生に対してはAという答えを出し、別の学生に対してはそれとは反対のBという答えを与えるということをなさることがありました。それぞれの学生の生い立ち・ものの考え方・能力・理解のしかたなどを知ったうえでなさったことです。現在では、教師のほうにも、そうした、ひとを見るという経験が薄いし、学生諸君も、ひとからいい影響を受けようとする心構えがひじょうに不足しているのではないでしょうか。
180頁

これはさすがに「教育的配慮」が過ぎるのかもしれないが、往年のゼミナールがしのばれる。こうした営みを理想とするのがよいのかどうか、機会があればそのあたりから皆さんと考えてみたい。