ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

臨床心理学者と社会学者の共著である。序に記されているように心理学、社会学の溝はなぜだか深く、学会間、研究者間の交流はあまりない。私はこれまで学内の臨床心理学者と共同で講義や課外プログラムを企画、運営してきたものの、確かに学外でその話しをすると驚かれることがよくある。「心理主義」批判という学問上の文脈とは別に、若者を理解するよう懸命に努力して何とか支えようとする営みにおいては、2つの学問のアプローチをぶつけてみることも大事である。
次の箇所に辿りついたところで、思案に暮れてしまった。

第三章 スティグマ化とトラウマ化
ある女性は、カウンセラーである筆者たちのひとりが彼女を安心させるために微笑んだのを嘲笑として受け取り、「やっぱり私はおかいしですか?」という疑念にとらわれていったことがあった。彼女には中学生のころにクラスメイトから無視されつづけた経験があったという。
67頁

安心させるための笑顔がかえって両者の距離を遠ざけてしまう、この箇所を読んでとても心苦しくなった。日常、何らかの目的を持って笑顔を「作る」という作業はよくあることだが、実はそれほど簡単にはその目的は達成できないのである。おそらく、この事例はそれほど馴染みがない関係性において生じたことであろう。このことは、大学教員と学生の関係性においてもあてはまる。大きな教室で顔を見かけたことがある程度の学生に対して笑顔で接したとき、もしかしたら学生はその人生経験ゆえにその笑顔を嘲笑であると読み取ってしまうかもしれない。どうするべきなのだろう。
教養教育に関する論考も示唆に富むものであった。

第六章 「物語なき物語」を生きる
つまり、かつての教養教育課程が、その後の専門課程や進路を選択するための猶予期間であり、いわば目的(専門課程や進路)を探すことが目的とされていたことを考えれば、若者のモラトリアムもまた、自分の「目的を探すことを目的とする」ことが想定された、一種の「メタ目的論的な時間」であったと考えられる。そこでは、与えられた目的を達成することではなく、目的そのものが追い求められた。そして、そこで追い求められる目的は、あくまで自己にとっての目的であって他者から与えられるものではなく、それどころか自己が他者とは異なることの証明、つまり「自己アイデンティティ」の根拠となるものであった。それは、ポストモラトリアムにおける目的(よい企業に就職する、など)が親や学校、マスメディアから与えられ、誰よりも早く確実にその目的を達成することが求められるのとは大きく異なっている。
156頁

かつての教養教育が果たしてそれほど意識的に「目的を探すことを目的とする」営みとして行われていたかどうかは不確かではあるものの、結果としてはそうした意味付けが可能であったことは頷けるものである。
ただ、ポストモラトリアムのあり方に対する思慮なき追従への警戒という関心は極めて重要であるとは思うものの、同時に古典的モラトリアムが社会の経済的、心理的な豊かさに支えられていたという側面を忘れてはならないだろう。それを欠いた現状において、もし、古典的モラトリアムを取り戻す必要があるとするならば、相当に困難な道のりが目のまえにあることを覚悟しなければならないはずである。






そして、心の問題で片付けてしまわないことも忘れてはならない。その一つの例。

彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力

彼女たちの売春(ワリキリ) 社会からの斥力、出会い系の引力

売春はいつも、個人の心の問題などに還元されてきた。政治や社会の問題として語られるときは、包摂ではなく排除の対象として、セーフティネットではなくスティグマ(烙印)が必要な対象として、生命や人権の問題としてではなく風紀や道徳の問題として、売春は受け止められ続けてきた。これらはすべて、とても凡庸で退屈な、無慈悲さに無自覚なクリシェ(常套句)である。
13頁

筆者の聞き取りの努力には頭が下がる思いである。100人を超える聞き取りの成果である。もう少し知りたかったのは、聞き取りという行為が対象者に与える影響について筆者がどう考えるか、である。筆者と出会ったことによって、その人生が僅かばかりでも変わりそうな雰囲気がある対象者もいるようだ。