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ある研究に参加して、いくつかの大学の関係者に大学教育をテーマとしたお話しを聞かせて頂いている。調査にご協力頂いた皆さま、ありがとうございました。これから調査にご協力頂く皆さま、どうぞよろしくお願い申し上げます。
以下、研究を開始したばかりの現時点における雑感である。大学教育全般のなかで、学生がもっとも勉強した、じぶんにとって意味のある時間だった、何らかの技術・技能が身についた、と回答するのがゼミナールであった。教員もまた同様に、ゼミナールを重視すると回答する。履修者が少人数の講義や参加型の講義も評価が高いものの、ゼミナールには及ばないようである。特定の技術・技能を身につけることができる講義よりも、その同じ技術・技能をゼミナールで身につけていこともある―たとえば、表計算や統計ソフトウェアの利用やプレゼンテーションなど。調査対象の多くは入学するために莫大な各種の資源を費やす必要のある大学ではない。国立や早慶ではない。ごく「ふつう」の大学であって、そして、必ずしも充実したゼミナール制度の存在をプローモーションに利用しているわけではない。それでもなお、教員、学生のゼミナールに対する期待や納得度は高いのである。特に、低年時からゼミナールが必修であったり、卒業論文が必修として課されていたりするほど、つまり、ゼミナールへの関与の質や量―適切な言葉が浮かばない、こんな陳腐な言葉ではなくてどう言えばよいだろうか―が高いほど、ゼミナールに対する評価が高くなるような印象を持った。そこには、教員は教育に時間を使いたくないし、学生は勉強したくない、だからこそ両者が手を抜くといった「共犯関係」はまったく見られないのである。繰り返そう。このことは、ごく「ふつう」の大学において見いだされることなのだ。
ここでは、かなり雑な感想を述べられるだけであって、これから数年間かけての検討が必要である。ただ、もし、少なくとも当事者たちの意識の点でゼミナールが大事であるということならば、よく言われるように「単位制度の実質化」論の矛盾を突くことになる。ゼミナールには多くの時間を費やす一方で、それ以外の講義は相対的に時間を費やしていないのかもしれない。すべての講義を1単位=45時間という枠組みで設計して、その積み重ねが卒業単位になるという政策方針に従うことでほんとうによいのだろうか。従うのであれば、ゼミナールには半期2単位や通年4単位ではなく、半期8単位や通年16単位といった重み付けが必要になるのかもしれない。
一橋はこの問題を深刻に受けとめなければならない。特に後期ゼミナールにおいて少なくない学生が法規の定め以上の時間を費やしているだろう。卒業論文は0単位であるにもかかわらず、後期ゼミナールの単位に含まれるものとして必修とされている。大晦日の今日もまた、卒業間近の4年生は卒業論文の執筆に追われているだろう。「単位制度の実質化」という大きな政策方針については、その他の政策と同じように、実際のところ政策実施の領域に偏りが存在する。一方で、学生に多くの宿題を課しなさい、時間を費やす必要のある参加型の講義をしなさいと言うのは、それじたいを言うことも実際に導入することも比較的容易であって、いろいろな論者がその推進を主張する。他方で、単位制度の矛盾の解消、そもそも「単位制度の実質化」論の妥当性については論じられることがないのである。
研究室制度のある理科系の大学では、この矛盾をどのように解消しているのだろうか。



後半は「ベタ」な駄文を書いてしまった。2012年の大晦日である*1

*1:表題の「ゼミナリステン」、通称「ゼミテン」、他の大学では通じないからね。一橋生、気をつけろ!