新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)

新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)

備忘。全教/日教組の対立もこの枠組みで理解してよいだろうか。レヴァイアサン・グループの利益団体研究も復習しなければならない。道のりは遠い。
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_uyosayo.html


その特徴がよくわかるのは、両派の系統の労働運動の性格だと思います。共産党系の労働運動には、どこか「優等生」的なイメージがあるのに対して、社会党左派系の労働運動には、「こんな仕事やってられるか!」というような、アウトロー的心情が感じられるのです。
例えば、共産党は「教師聖職論」を唱えていました。教師は父母や子どもたちに責任を負って、あるべき教育をきちんと行う専門職を目指せというわけです。自治体公務員の労働運動についても、「全体の奉仕者論」を唱え、自分たちの利益だけではなく、地域住民の要求を実現するためにがんばれと言っていました。企業の生産性向上のための合理化にも、「良い合理化、悪い合理化」があると言って、いちがいにこれを否定しませんでした。一般的に、共産党の言うことには、世の中のためにちゃんとした仕事をしましょう的なニュアンスがあったわけです。
しかし保守政権や管理者の側だってこれまでずっと、「教師は聖職なんだから」「公務員は全体の奉仕者なんだから」などと言って、ストライキなんかせずに黙って上の言うことを聞いて、給料上がらなくても働くように言って、労働組合を攻撃したわけです。そんな中に置かれた現場の組合員の立場からすれば、「何言ってやんでえ」ですね。保守政権や管理者が勝手なキレイゴトを言って自分たちの都合を押し付けてくるのと全く同じく、共産党も勝手なキレイゴトを言って自分たちの都合を押し付けてくる。そんな姿勢が「上から目線」の独善ととらえられ、反発を買ったのでした。「嘉顕の道」の欠点ですね。
それに対して社会党左派は、このような、上からの抑圧に対する現場の反発に依拠する「銑次の道」に立ってきたわけです。教師だって、公務員だって、まずもって労働者なんだ。生身の私生活のある人間なんだ。賃金にしても何にしても、まっとうな労働条件がないと困るし、労働者としての権利は認めろ。―――日教組自治労社会党支持の主流派は、このような立場に立って闘ってきたわけです。
しかしその結果、教育現場で子どもたちの都合が置き去りにされたり、住民に不便が強いられたりすることが起こりました。そこでたまっていた不満を背景に、「公務員は怠惰で既得権をむさぼっている」といったイメージが一人歩きしてしまったわけです。
164-166頁