時事問題に関して「脊髄反射」(?)的にコメントするのはとても恥ずかしい。ジャーナリストではないのでなるべく控えている。しかし、研究に大きく関与することなので一言だけ。
田中眞紀子文部科学大臣が大学設置・学校法人審議会の答申を覆して大学設置を不認可としたのは驚いた*1。近年のことは理解していないものの、私が研究対象としてきた1960年代〜1980年代において、大学設置は「行政指導」の典型であったためである。行政学の知見以上のことを言えないので、それをテーマとした論文は書いていない。行政学で言われてきたことそのものなのである。

現代政治学小辞典

行政指導 administrative guidance
行政機関が特定の行政目的を実現するために、直接の法的な強制力によるのではなく、個人や公私の団体に対して任意の協力を求めて働きかけること。わが国では、その柔軟性・便宜性などから広く行われてきたが、事実上強制に転化しやすく、恣意に流れ責任が曖昧になるなどの問題があり、1993年(平成5年)に制定された「行政手続法」に行政指導の一般原則や文書請求制などが定められた。
85頁

政治学 (New Liberal Arts Selection)

法律に基づく関与
日本の行政の特徴の一つとして、行政指導がある。定義は論者によって異なるが、おおよそ、法律の執行によってではなく相手方の同意に基づいてある行動をさせること、である。形式的には同意に基づくが、実質的には強制であることが問題であるとされる。行政と民間の間だけでなく、中央政府と地方政府の間にも広範に行政指導が行われてきている。中央政府(省庁)が地方政府に対し、通達等によって法令の解釈や運用方針に関して基準を示したり、地方政府からの法令に関する個別的な問い合わせに対して回答したりすることで、行政指導は行われている。
266頁

かつてであれば、設置審に諮る事前の段階で設置認可申請の書類に不備がないように繰り返し指導が行われていた。そこに関与するのは、学校法人、地方政府、文部省の担当者だけではない。手練手管(?)を駆使できる大学開設コンサルタント、資金繰りを支援する金融機関(入学金、授業料が振り込まれるまでが大変なのである)、文部省OB・OG、場合によっては政治家も関わっていた。そうして、非の打ち所がない書類が作成される。そもそも書類に形式上の不備がある場合には、窓口で指導されるために提出できない。事前に指導を受けないで提出できたなどとういう事例はかなり限られていたのではないか。そして、設置審は教育内容にまで踏み込んだ議論をすることはない。教育に関する価値や理念の是非を問うことは極めて難しい―そもそもそんな営みは教育研究の自由に抵触するだろう。現代でも多かれ少なかれ、このような経緯を辿っているのではないだろうか。もし、今回の学校法人、地方政府が文部科学省による行政指導を受けていたのであれば、まったく理解できない事態であろう。政治任用職が教育行政に深く関わろうとすると混乱を招くという好例である。政治任用職と教育行政は一定の緊張関係を保持したほうがよい。
文部科学大臣の首を、学校法人の理事長の首をすげ替えろとか、それによって日本の教育を、ある大学の教育を「よく」できるのだ!などと威勢のよい声を聞く機会が少なくない。声高の煽動的な主張ばかりが着目されてしまう現状に落胆する。少なくとも大学については、有能な「経営者」が現れれば教育が「よく」なるという安易な想像が実現するような簡単な組織ではない*2。大きな石油タンカーを想像してほしい。進路を5度傾けるためには、ゆっくりと時間をかけた操舵が必要なのだ。

*1:コメントを寄せた研究者、日経が小林信一、朝日が有本章であった。何となく立ち位置がわかる。

*2:ゴミ缶であると言いたいわけではない。