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反大学論と大学史研究―中野実の足跡

反大学論と大学史研究―中野実の足跡

東信堂による帯は「70年代の日本とは何であったか!」、「(筆者には)大学史研究者として知られる近年の顔のほかに、かつての激烈な体制批判者、『反大学』論の書き手としてのもう一つの『顔』があった」とある。しかし、そこまで営業用の言葉を並べる必要はない。とても勉強になった。
立教大学で講義を担当することが決まって以来、立教の歴史についてはかなり勉強したつもりであった。しかし、第二次世界大戦以前と大綱化以降のことがらばかりに注目してしまって、学生運動の時期のことがらについてはまったく足りなかったことを反省した。立教の自主講座運動の存在も知らなかったのである―よく言及されるのは、横浜国立大学の試みである。ともあれ、現代においても引き続き検討されなければならない問いが多く示されている。少しだけ例を挙げよう。

学生を巻き込み、参加させることにより、より本質的な大学の問題をかくすのは当局の常套手段であるのだが。87頁

対象に関する知識蒐集ではなく、認識主体をより深く対自的に読み込んでいく過程こそわたしにとっての大学論である。(略)大学の教授が大学についてあれや、これや述べているのがひたすら天上の国へのつきせぬ恋心の告白として、いい気なものだと読み手は感じさせるのはみずからの変節への自覚化がないからである。いやそんなものはないのかもしれないが。89頁

大学は人間の(共同)幻想を基礎にして成立している。大学の人間的基礎はまさに人間の意識の外化にある。社会制度としての大学を考える場合も、この点を欠落させてはいけない。わたしが考えるには反大学の思想は人間の意識の外化をもう一度外化させる、と思っている。学問・研究の人間的基礎へ立ちかえることを試みたものであったと思う。さらに、反大学の様式は現実に存在しなくても、意識(幻想)として定立させることで、より具体的な〈人間的〉基礎を獲得する可能性があると考えている。大学が歴史のなかで所有してきたものを乖離し、深いところで拮抗関係を生みだすだろう。98頁

最後に挙げた引用を理解するのは難しい。ただ私などが強い印象を受けるところは、当時の象牙の塔を生きた大学生、大学院生の自らと学問・研究の関係性を深く問おうとする姿勢の凄みである。筆者が寺崎昌男に提出した講義レポートのエピソード、現代は考えられないことである。この印象は、筆者の同世代の先輩諸氏の姿を見ても感じることである。自らは学問・研究をしなければ生きる意味がないのだ、と言うかのようにである。それにひきかえ、若手はどうしても言わばビジネスライクで仕事を進めているように見えてしまう。
第三部の「回想・追悼文集」も私にとってはとても価値がある。天野郁夫が「アマチュア歴史研究者の私は、何かというと誠実で綿密な、正統的な大学史研究者の中野さんに、資料の上でお世話になった」(353頁)という。そんなことを言われてしまっては、現代の大学史研究者は顔から火が出るほど恥ずかしくなるばかりである。また荒井克弘が行っていた「マンパワー研究会」(358頁)、これは絶対に確認しなければならない。中野実、田中萬年、成定薫、米田俊彦、本多二郎が参加していたようだ。45年から60年までくらいの技術者研究という内容だろうか。また東北大学にお世話になりそうだ。