ソーシャル・キャピタルのフロンティア―その到達点と可能性

ソーシャル・キャピタルのフロンティア―その到達点と可能性

第1章「座談会―ソーシャル・キャピタルの多面性」において、日本の教育学分野では社会関係資本の理解が遅れているという問題提起が行われている。J. Colemanの研究を引き取って発展させよ、ということである。しかし、第8章「教育」でまとめられているレビューを読む限り、教育学、もしくは、教育社会学は類似の研究を積み重ねきたのではないだろうか。学校文化論、学校経営論、階層論、再生産論などによって既に明らかにされたことをソーシャル・キャピタル概念で把握し直す利点がよくわからなかった。確かに注2で触れられているように、Colemanのような調査を日本で実施するのは極めて困難であるのだけれども、それ以前の問題としてソーシャル・キャピタル概念をあえて持ち込む意義を検討する必要があるだろう。
かつて自分でレビューしたときに考えつかなかったことが「悪い」ソーシャル・キャピタル論である。他者の排除、規範の強制、「不平等の罠」という側面は高等教育研究にも重要な示唆を与えるかもしれない―これまで「良い」ソーシャル・キャピタルのみを検討してきたともいえるだろう。負の外部性ということばが適切かどうかはわかならいものの、ユニバーサル段階に至ったといわれる現代においては、そうした見えにくい悪影響のようなことがらについて考えなければならないのかもしれない。もう少し勉強してみたい。