http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325047.htm
中央教育審議会答申(2012.8.28)「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて〜生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ〜」を読んでいる。具体的な改革方策については、(残念ながら?)特に目新しいことはない。ただ、学部長人事への介入はさすがに行き過ぎであると思われるところであって、ポンチ絵の「迅速・着実に実施」の星印がやや恐ろしい。
まだ答申の全体像に関する整理ができないのだけれども、とりいそぎ「教養」観についてのひっかかりをメモしておく*1。同答申は「教養」を知識、経験、技術、技能と並列に置いて、それを身につける目的は「想定外の困難に際して的確な判断力を発揮」するためだという。この目的は、たとえば四六答申に描かれた「教養」に比べるとかなり狭い。四六答申の[説明]は、「本人の将来の社会的な進路を中心として総合された専門的な教養」、「このような時代にみずから生きる目標を正しく選び、すぐれた社会人として充実した人生を送るためには、人間観・価値観にかかわる基礎的な教養」が重視されなければならないとする。高等教育の類型構想においても、総合領域型の大学については「将来の社会的進路のあまり細分化されない区分に応じて、総合的な教育課程により、専門的な教養を身につけさせようとする」として、教養はどちらかといえば他の概念と併置されるものとしてではなく、総合性という含意を含んだものとして理解されているように読める―しかし、この読み方はかなり怪しいのでどこかの機会で議論させて下さい。
J.S.ミルの言っていたことを思い出して嘆息してしまう。

大学教育について (岩波文庫)

大学教育について (岩波文庫)

大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。(略)専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く一般教養の光明をもたらす類のものです。
12-14頁

余談である。この文庫版の竹内洋の解説はおもしろい。ミルが近代日本人に知られていた理由のひとつは、その凝った英文が入試問題によく採択されていたからだ、というのである。ほんとうだろうか(笑)。それはともかく、竹内が言及しているミルの時代の教養教育論争、これは現代こそ巻き起こるようにも思えるのだ。しかし、そうはなっていない。なぜなのだろう。

*1:もうひとつ、パブコメにひっかかっている。どのように「活用」されたのだろう。別途、政策過程論の問題として考えたい。