読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

教育 2012年 09月号 [雑誌]

教育 2012年 09月号 [雑誌]

メッセージ「教育科学研究会再建60周年に寄せて」がおもしろい。
太田堯論文「教育は『総合芸術』」は、戦前教科研と戦後教科研には不幸にも「社会の支配的動向」に対して違和感をもった教育研究グループであることが共通点であると指摘する。教科研から見えていた「社会の支配的動向」とは何を指すのか、文部省とか産業界とか大まかなくくり方をしないで、もう少し丁寧に考えてみたい論点である。また、合わせて指摘されているように、確かに第1回教育科学研究全国協議会は、上原専禄清水幾太郎務台理作など教育研究者以外の著名人が有志者に含まれていた。「戦後教科研の初心も、そもそも教育そのものが総合的文化的活動であり、教育研究者を中心に、諸分野の学者、専門家の協力なしには、研究そのものが成り立たないと考えてのこと」(91-92頁)ということは、なるほどそのとおりだと納得できるものである。
しかし、その「総合芸術」としての性格は次第に失われていく。佐藤隆論文「教育実践と教育科学」は、教科研の活動の源泉は自由であって、さまざまな立場、角度から自由に研究する団体であるとしながらも、同時に、おそらくは教育社会学、教育行政学、教育工学等を指すものと思われる教育諸学、また、それらに基づく「経営的手法」の採用を「教育実践に根ざさず、教育実践を励ましもしない研究が大手をふっている」(98頁)と厳しく非難する*1。私の専門分野である高等教育研究もまた実践の担い手を励ますような視点を持たないものが多いので、その怒りについて共感できないということもない。しかしながら、そうした隣接諸学を排除していった結果こそが現代の教科研なのではなかろうか。およそ、さまざまな立場、角度から自由にものを言えるようには見えないのである。
岩辺泰吏論文「『発展』ではなく『改革』へ」は、雑誌『教育』が明るく親しみやすいものになったこと、若手教員の活躍がすばらしいことに言及している。私もまた同じような感想を持っている。ただ、それが今後の教科研の「改革」につながるのかどうかについては、私は消極的な見通しを持っている。「『教育』読者の会」において、ベテラン教員が若手教員の参加の少なさに不満を述べるだけであること、若手教員の参加があってもその実践の甘さに関してベテラン教員が詰問すること、こうした状況が継続するようであれば甚だ心許ないのである。ベテラン教員が腕組みをして難しい顔をしている中で、若手教員が自由に自らの実践を語ることは難しいであろう。
そもそも教科研の存在を知らない若手教員に話しを聞く機会がある度に、そうした教員の生活世界における価値観と教科研の価値観との齟齬を埋めることができるだろうかと考え込むのである。

*1:借り物の理論ではない教育学/教育科学とは何を指すのだろうか。借り物としてのみ存在できるのではないか。