失われざる十年の記憶―一九九〇年代の社会学

失われざる十年の記憶―一九九〇年代の社会学

第1章 佐幸信介「郊外空間の反転した世界―『空中庭園』と住空間の経験」

 『滝山コミューン』を読んで以来、自分の団地(公団住宅)経験―東日本の大都市郊外、西日本の大都市郊外のそれぞれ―をどのように語るべきなのか逡巡が続いている。この論文を読んで、分譲住宅と賃貸住宅とを区別する必要があったのではないかという思いを持つ。賃貸住宅としての私の経験が、持ち家政策やマイホーム主義と合わせて語られる分譲住宅のあり方と交差しないのである。
 東日本のある団地は、ターミナル駅からバスで20分ほどの丘陵地にあった。現代の「団地萌え」のひとがいうところの「スターハウス」も存在したことから、マンモス団地とまではいえないもののその規模は大きい方であったのだろう。すべての建物が高層住宅であって、すべての部屋が賃貸だった。そして、団地の造成と同時に新しい小学校が団地の真ん中に建設された。小学校の生徒は、団地6割、団地周辺の民間分譲マンション2割、同じく周辺の賃貸アパート2割ほどの構成比であったように思う。賃貸アパートは阪神間でいう「文化住宅」である―その他の地域における適切ないい方がよくわからない。私の経験は、その団地は「通過」するものであった。小学校の級友は、その団地のさらに郊外、ターミナル駅から国鉄か私鉄で数駅先にできた分譲マンションや一軒家に引っ越していく。持ち家政策がねらい通りに機能していたということだろうか。「n号棟の○○くん、こんどマンションに引っ越すんだって。うらやましいね。」私もまた、父親の仕事の都合で西日本の団地に引っ越すことになる。分譲マンションや一軒家に引越しをしないということは、稼ぎ手の収入が低いままである、大きな借金がある、マイカーやクーラーが分不相応だ、家族で派手に遊んでいる、といったラベルを貼られてしまうことを意味していた。論文の筆者が言うように、確かに所有する分譲住宅であればnLDKは家族構成に対応するだろう。しかし、「通過」する住宅はそのような対応を考慮しない。間取りは1DKと2DKだけであった。浴槽はあるものの、同じ空間にトイレがあるほど狭い住宅であった―現代のユニットバスとは異なるのだけれども、浴槽とトイレがタイル敷きの空間に間仕切りもなく並べられていた。そこに、4人家族(子ども2人)、5人家族(子ども3人)が住んでいる。子どもが個室を持つことはかなり困難である。
 現代において、団地というイメージに閉塞感がつきまとう理由もわからないではない。しかし、その当時、一方で『滝山コミューン』のように小学校には「ボロ班」があったり、団地の自治会もまた窮屈なものであったりしたものの―私にとっては自治会によるさまざまな四季折々の強制参加のイベントこそ「コミューン」的であったように思う、他方で「通過」する場所にすぎないという自覚を持ちつつも、それなりに展望のある場所であった。団地も小学校もできたばかりで新しく、強制参加だからこそ(?)イベントには大勢の人びとが集まって活気があった。団地周辺の民間分譲マンションにおいて結成された野球チームに入っている級友のユニフォームやバットなどは新品で、片や、団地の野球チームの私たちのものはお下がりばかりであったけれども、である。ともあれ、「三丁目の夕日」のような単なるノスタルジーに陥らないように、こうした印象を明確な文章にすることがなかなかできないでいるのだ。
 ところで、私は大学生になってから、生徒の構成比が同じ団地10割である場合の弊害、階層が均一になることの弊害について、ある教育社会学者から話しを聞くことになる。この話しは、私が研究を続けることの支えの一つになっている。周辺の分譲マンションに住んでいた、両親が小学校の教員であった級友がいなければ、現在の私はなかったであろう。その家には百科事典があり、学研の「科学と学習」を定期購読していて、粗野な言葉が用いられることはなく、キャラクターもののおもちゃはなく、おやつは手作りであったのだ。その両親からよく電話で家庭内の様子を尋ねられて―それはあたかも担任教師による生活指導であった、母親がひたすらに平身低頭であったことを覚えている。母親は「あんた、先生の子どもなんかと友だちになれるの」と呆れていたのである―これは、現代の文脈だと読み違えるコミュニケーションであるかもしれない(学生の皆さんは、こうした感覚がわかるだろうか)。
 西日本の団地経験については、別の機会に書くことにする。

第4章 鈴木智之「アレゴリカルな暴力の浮上―『酒鬼薔薇聖斗』と物語の条件」

この論文に少しだけ関わってくるのである。