高等教育学会のおおまかな感想である。
「教学マネジメント」の課題研究。(乱暴にまとめてしまえば、)さまざまな問題点はあるけれども、各大学、学部の実情に応じた意思疎通の徹底、各種ツールの導入が必要だ、という趣旨であった。私はそうした実践に傾斜した議論の展開に物足りなさを感じていた。しかし、最後の質疑応答の時間において、元学会長による質問をお聞きしてその部会に出席した意義を確認できた。その大意は次のとおりである。「私などはアベグレンの『日本の経営』を思い出してしまう。かつて、米国の経営学者によって海外とは異なる日本特有のマネジメントのあり方が『発見』されたのだ。日本の大学もまた、海外とは異なる日本特有のマネジメントが存在してきたはずである。その研究がまったく行われていないにもかかわらず、海外由来のマネジメントを輸入することに意味はあるのか。」この質問に対しては、明確な応答がおこなわれなかった。高等教育研究の多くが抱えている問題のはずである。
IRの部会。2つほどひっかかりを感じる。1つには、「ニート、フリーターにさせない大学教育」、「じぶんのやりたいことが見つかる大学教育」、「人生を意欲的に過ごすことができるようになる大学教育」に聴衆の関心が向けられていたことだ。フリーター志向の学生について、聴衆から失笑、嘆息があった。一方で私学経営という事情から、それらの必要性は理解できるものの、他方で学生がニート、フリーターでもいいと回答するに至るさまざまな背景を検討せずに、学生個人にあらゆる問題を帰責させようとする意向について物悲しくなったのである。もう1つには、一人一人の学生を対象とした経年調査を通じて必要性がわかることになるという「教育プログラム」についてである。テイラーメイド型、くもん式型とでも言えばよいのだろうか。経営工学的な思想に基づいた「教育プログラム」でよいのかどうか、なお検討の余地は多く残されているはずである。こうした「教育プログラム」には、どうも北澤(2011)が言う「無力化実践」が含まれるようにみえる。

“教育

“教育"を社会学する

学生に「無力」であるように振舞うことを要請していることを、どのようにして強く自覚することができるだろうか。