カウンセリングを巡る専門職システムの形成過程―「心」の管轄権とプロフェッショナリズムの多元性

カウンセリングを巡る専門職システムの形成過程―「心」の管轄権とプロフェッショナリズムの多元性

昨日の内観療法への言及は「前ふり」、「つかみ」であった。
臨床心理士と(スクール)カウンセラーのイメージが混同視されてしまう理由を知りたいと思っていたところである。米国の文脈においては、後者が職業相談業務において心理学を基盤とするテストを導入していったこと、両者ともにCarl Rogersのインパクトが大きかったことがその要因でありそうだという見解は腑に落ちるものであった。日本については、生徒指導主事をカウンセラーとみなしてきたということをはじめて知った。だとすると、臨床心理士こそがカウンセラーであるというイメージが強いのは、やはり社会の心理主義化の影響を受けているためなのだろうか。
「端的にまとめるならば両者の差異は、問題の診断および治療か(=臨床心理学:ブログ筆者注)、あるいは適応ないし成長の援助か(=カウンセリング心理学:同注)、という視点ないし機能の違いに求められる」(67頁)という。この相違に関する説明からすれば、教育機関における臨床心理士による学業不振の生徒・学生の支援の営みはやや的外れである。学業不振の原因が治療の対象であるとこともありえるが、むしろ、成長の援助という視座の方が有益なこともあるだろう。
米国を対象とした研究としての「ないものねだり」は軍隊の影響である。復員兵援護法がカウンセラーの発展に寄与したような事情を想像してみる―もちろん、國分康孝が陸軍幼年学校の出身者であるというのはさすがに偶然であるとは思う。日本を対象とした研究としてのそれは産業カウンセリング、キャリアコンサルティングの近年の動向のフォローアップである。2000年代に入って、めまぐるしく同領域の資格の取り扱いや社会的な認識が変化している印象を持っている。ようやくキャリア・コンサルティング技能検定1級も始まるようである。従来のカン、コツ、経験による支援のあり方の見直しが進むのかもしれない。さらに、政策過程研究として見れば、さままなカウンセラーの国家資格化に関する国会議員の役割をもう少し知りたい。文教族と同じ、いわゆる「誰得」の領域である―今回の出張先の文献収集において名前が出てきた有田一壽を考えてみれば、もちろん「誰得」説への反論はありえるだろう。


高大接続の“現実”―“学力の交差点”からのメッセージ

高大接続の“現実”―“学力の交差点”からのメッセージ

「学力の交差点」という意味付けは重要である。大学だからこそ伸びる学生が存在することが説得的に示されていた。場所や時間などの「枠づけ」の弱さゆえに戸惑う学生ばかりではなく、それゆえに伸びるという学生もいることを知ることができた。
以下の引用は「教育困難校」と言われる高校の状況である。重要な問題提起である。

ここで、大学関係者に是非とも認識しておいてもらいたいことがある。「教育困難校」から大学に進むのは、必ずしも成績の良い、教員から見て大学進学を勧めたい生徒ばかりではない。大学進学できる費用を何とか工面できそうな生徒が進学するのだ。進学するかどうか決めるのは、能力でも学びたいという意欲でもなく、最終的には家庭の経済力であるという現実を、高校教員はいやになるほど見ている。55頁

色々な問題はあっても、高校側は入学前教育を実施することには好意的なようだ。早々と合格が決まり、生活が緩んでしまった生徒を再度勉強に向かわせるきっかけとなり得るからだ。それだけに是非、全員参加で、初年度納入金に少しだけ上乗せしてもよいから、その際の別途負担金なしで実施するよう、大学関係者に一考をお願いしたい。67頁