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岩波書店の2013年度定期採用についてネット上で議論が盛り上がっている*1。「紹介」を必要とすることに否定的な意見が多い印象である。「紹介」にもとづく選抜は許されないという否定的な意見の背景に、たとえば、学歴・学校歴にもとづくメリトクラシーが徹底した社会こそがあるべき姿なのだ、という主張が存在するのだろうか。そこで、半年前に森論文に対するコメントを書いて途中で投げ出しておきながら(すみません)、広田論文を確認しておきたい。

再検討 教育機会の平等

再検討 教育機会の平等

広田照幸「能力にもとづく選抜のあいまいさと恣意性―メリトクラシーは到来していない」247-272頁

この論文で行ってきたのは、メリトクラシーという仮想社会と対比させることで、現代社会における「適切かつ正確に測られた能力による選抜・配分」という像に対して、疑問を投げかける作業であった。能力による選抜はあいまいで不確実であり、生まれつきの能力は測れない。また、能力による選抜は技術的・中立的なプロセスではなく、市場のアクターによる恣意的なミクロ権力が作動していることを述べてきた。268頁

私はかつて、身長、視力、赤血球の数、TOEFL iBTのスコア、受験した小学校の難易度、祖父・祖母の年収、1ヶ月間にFacebookで「いいね!」を押した数、カラオケで歌詞を見ないで歌うことのできる曲数、プレステの保有ソフト数、利き缶コーヒーの正答数、これらを偏差値にして、それを平均した指数を現代の「人間力」であると定義したことがある*2。同様に私は「学士力」も定義済みであって、そこに上場企業への縁故関係を開拓した数を含めている。もちろんすべてウソである。ただし、これを笑うことはできないはずだ。
私たちは能力を正確に測りたいという欲望があまりに大きすぎるのかもしれない。しかし、どれだけ資源を投入しても、測定そのものとそれにもとづく選抜は恣意性を免れることなどできない。そもそも何を測定の対象とするのか、そのモノサシをどのように作成するのかは恣意的であるし、その結果を利用しての選抜もまた恣意的にならざるをえない。たとえ、それらの恣意性ついて流行の「熟議」を経て「解決策が洗練」されるのだとしてもなお疑問は残るだろう*3。むしろ、そうした恣意性を排した暁にはメリトクラシーディストピアが到来するだけである。以上、この岩波書店の本を買うべきである、この本の著者たちに紹介状を書いてもらうべきであるという「ステマ」であった。「ステマ」はもう流行おくれか…。正確には、2月の繁忙期における目のまえの仕事からの逃避であった。

*1:法規の観点からの議論は進んでいるのだろうか。「契約自由の原則」、「採用の自由」、「三菱樹脂事件」などを勉強したことを思い出す。

*2:閲覧数も増えているので、より正確に記しておこう。握力、本棚の洋書数、子どもの頃に美術館に行った回数を挙げるのを忘れていた。この計算方法は「週刊東洋経済」2011年10/22号から学ばせて頂いた。

*3:今頃になって「熟議の限界」と言われても…。