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24日は仙台で仕事。
その前日、ボンバルディア機のエンジントラブルで少し待たされることになった。おかげで読書が捗ることになる。

学校にできること 一人称の教育社会学 (角川選書)

学校にできること 一人称の教育社会学 (角川選書)

修士の頃に読みたかった。現在、教育社会学を研究している修士1年、将来、大学院で教育社会学を研究したい学部生の皆さんにお勧めである―M0(エムゼロ)という言葉は、何となく内部進学者を優遇している印象を持ってしまうのであまり使いたくない。ただ、ここから受け取らなければならないことはもちろん「一人称の教育社会学でいいんだ」ではない。宮地尚子が指摘する「かくれ当事者研究」の問題を考えることである。特に教育社会学においては、実は研究者自身が当事者であることを名乗らない研究は少なくないのかもしれない。当事者が一見すると「客観的」な量的研究を行っていることもあるはずだ。この「かくれ当事者」の当事者性をどのように考えればよいだろうか。
逸脱とコントロールの社会学―社会病理学を超えて (有斐閣アルマ)

逸脱とコントロールの社会学―社会病理学を超えて (有斐閣アルマ)

高等教育における成績不良の理由を単純に学生の努力不足へ求める議論を克服するため、逸脱研究を復習中である。初等中等教育の研究蓄積があまりにも無視されている。
公立大学の誕生 ?近代日本の大学と地域?

公立大学の誕生 ?近代日本の大学と地域?

私のほんとうの専門は大学史である。私自身がよく忘れてしまうのだけれども。とにかく面白い。大学史に関心がなくても、現在の大阪市政に関心があるのならば、ぜひ第10章「公立大学理念の継承―大阪商科大学への昇格運動と関一の『市立大学論』」をご覧頂きたい。国立大学の「コッピー」ではない大阪市大の存在意義を確認できる。確かに関一の演説は過大評価されてきたのかもしれない。「コッピー」は有名だ…。ところで、今後、大阪市政において市大が誇る人権関連の教育研究がどうなってしまうのか気掛かりなのだ。
労働再審〈1〉転換期の労働と「能力」

労働再審〈1〉転換期の労働と「能力」

重要な論点が多すぎるので、今後あらためて言及したい。このブログをご覧の方は関心がなさそうだけれども、90年代以降に導入された役割給についてはきちんと考察してみたい。書かれていることが私の経験と多少ずれている。このずれの理由についてもまた、あらためての検討課題である。