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某GPA説明会で紹介しましたが、GPAを上げる方法の1つが上書き再履修制度の利用です。これは、過去に履修した科目を再度履修して、総履修登録単位数を増やさずに当該科目の成績評価を上書きする制度です。上書き再履修で取得した成績評価は、元履修の成績評価を無条件に上書きすることになります。
ただし、いくつか細かい注意事項があります。詳細は、

http://www.hit-u.ac.jp/kyomu/info/news.html
(ページの真ん中辺り)

にて確認して下さい。主な注意事項としては、「上書き再履修」が可能となる科目は毎年開講されるとは限らなかったり、初修外国語の必修クラス制授業についてはFをとった者のみ「上書き再履修」が認められたりすることです。






さて、ここからは、教育を研究対象とする教員の悩みです。明日のある講義において知識なるものを社会学として扱う予定ですが、そのための予習(=レジュメの作成、あらかじめ言うことを決めてある漫談・冗談の確認(たいていスベる))をしていて漠然と感じたことです。また、今日の夕方に私がとても尊敬しているN大学のH先生に仕事の進捗の遅さについて言い訳した際に、GPAに言及してその思いを強くしたことです。それは、「上書き再履修」の意味についてのことです。たとえば、はたしてほんとうにx年の○×△&%学概論で伝達される知識と、x+1年の○×△&%概論のそれは同じものなのか、かなり怪しいのではないかということです。「上書き再履修」はそれを同じものとみなす制度です。しかし、何も社会学のような学問を持ち出さなくても、x年に伝達される知識と、x+1年のそれとは同じ/かなり近いかもしれないけれども、x+7年(本学の最大在籍可能年数-1年)のそれとは異なるだろうということは、経験的にわかるのではないでしょうか。仮に、x+7年のそれが同じであるとするならば、そうした事態は、「大学教授の講義は、数十年間使い続けた古びたノートで行っている」などと非難されてきたことを反省しなければなりません。あるいは、知識を社会的な構成物であるというアプローチ、また、文脈依存的なものとして捉えるアプローチを取る場合、x年に伝達される知識と、x+1年に伝達される知識でさえも同じであるとはいえなくなるかもしれません。ローカルな文脈におけるコミュニケーションを再現できるとはとても思えないのです。
このテーマは、テレビでニュースを読むアナウンサーやキャスターが必要とされている理由につながります。ただ単に情報を伝達するだけであれば、人件費のかかるアナウンサーやキャスターは必要ありません。機械による音声で十分なわけです。しかし、それでは私たちは何か納得できない感覚が残ってしまいます。どうしても、何かを伝達しようとする場合、ローカルな文脈を重視するわけです。そして、それを再現することはかなり困難なことなのです。
GPAの問題性ばかりに気を取られてしまって、「上書き再履修」について考えることを避けてきてしまったことに気付いた一日でした。