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再検討 教育機会の平等

再検討 教育機会の平等

次回の某研究会に向けての予習である。ここでは、研究の慣例に従って敬称略とする。


森直人「個性化教育の可能性−愛知県東浦町の教育実践の系譜から」115-46頁


森の関心の一つは、「子ども中心主義」としてまとめられる一連の教育実践こそが「格差」を生じさせてきたのだ、といった教育社会学における通説にある。この通説は次のとおりにまとめられていて、それは教育社会学にとっては慣れ親しんできた理解である。

教育社会学が「教育の個性化/自由化」によせた批判的言説を要約すれば、(一)教師の統制・指導性(規律訓練型権力)の後景化により全般的な学習意欲・学力の低下が起こったが、(二)それは階層的に不均等に作用し、下層においては満足度・自己有能感は高まるが学習の保障は底抜けする(主体化する上層/動物化する下層)、(三)それはもともと備わる家庭の教育資源の格差を縮減する志向を放棄するものであるから(対応原理/見えない教育方法)、(四)結果、教育機会の階層間格差を拡大することにつながる、とまとめられる。142頁

森はこの通説が具体的な教育実践の吟味を伴わないままに流布してきたことに対して厳しい批判を行う。そして、ある教育実践には必ずしもそうした通説では説明しきれない豊かな内実があることを示している。その事例の一つが次のとおりである。

加えてもう一つ、実学習時間の確保という点である。家庭内の学校親和的な行動パターンが希薄な児童の場合、どうしても「学ぶ意欲の時間的なムラ」が観察される。一斉授業が束縛する時間的展開に精密にシンクロして学習意欲と行動を対応させることが困難な場合が多い。
だが「○○学習」のスタイルでは、「二五分遅れて学びを開始し(学習態勢に入れなかったため)」、休み時間に食い込んで「一五分延長して学習を完結させる(意欲と関心のピークが持続しているため)」、といった形で都合三十分の実学習時間が保障されている事例などが頻繁にみられる。とくに学業不振児やいわゆる「落ちつきのない子」の「学ぶ意欲の時間的なムラ」への許容性が可能にしている実学習時間の保障が、一斉授業形式のもとで(ただおとなしく座っているというのではなく)同程度に可能であるかという点も重要な争点である。136-7頁

そのうえで、教育社会学の一面的な言説がそうした教育実践の可能性を棄損しかねないことを指摘するのである。
さて、私がもう少し知りたいと思う点は以下である。1、論文の後半で言及されるバーンスティンであるが、この論文全体で示されている教育実践の記述に大きな役割を果たしている。それは、やや唐突に用いられる「枠づけ」という概念から推察される。バーンスティンによれば「枠づけ(framing)」はコミュニケーションの統制のあり方を示す概念である。コミュニケーションの選択、その順序、そのペース配分、評価基準(以上、「教授言説」に関するもの)、この伝達を可能にする社会的基盤に対する統制(「規制言説」に関するもの)、これらが統制の性質に関わっている。「枠づけ」が弱い場合、「見えない教育」実践が存在していて、子どもには「教授言説」、「規制言説」ともにわからないようになっている。なお、森は「内的な(internal)枠づけ」に着目していて、それはある所与の教育の文脈内部における統制の強弱を意味するものである。
知識の伝達のあり方については、この「枠づけ」概念の援用によって整理されている。場所、時間(ペース配分)、学習内容、評価のそれぞれが「枠づけ」の弱さを示していて、しかしながら、だからといってそれはしんどい子どもにとって必ずしも不利になるわけではないという指摘は確かに通説(誤解を含む通説)の限界を示すものである。同時に、知識の獲得のあり方について、「認知ルール」、「実現ルール」の観点からどのような整理が可能であるのか、考えてみたいところである。とりわけ「枠づけ」は「実現ルール」を規制するのであって、どうして「枠づけ」が弱いのにそれが可能となるのか、もう少しわかりたい。また、「認知ルール」についてもしんどい子どもにとってこの実践の文脈を理解するのは大変であるように思えるのであって、いかにしてそれが可能となっているのか関心を持っている。
2、これは、私の領域である高等教育に強く関連する問題である。たとえば、日本高等教育学会は日本教社会学会の系譜に連なるのだが、そこで高等教育に関する教育実践について報告されることはほとんどない。今年の学会大会では、おそらく私だけが教育実践を対象とした報告を行っている(もちろん、高等教育において教育実践を研究対象にすることは憚られてきたという経緯はあるのだが、しかし、大学教育学会では教育実践の研究が盛んなのであって、あまり良い「言いわけ」にはならない)。このことは、そもそも教育社会学に内在した問題、つまり、教育実践なるものはいかに記述可能なのかという問題を意味している。それを可能にするのは、たとえば既述のバーンスティンの議論であるのだろうが、残念ながらそれを援用した研究は多いとは言えない。この本でも森論文以外には、教育実践を記述したものはない。教育実践を記述するための言わば「足腰」を鍛える必要があるように思われる。
3、またバーンスティンを持ち出してみると、再文脈化された教育社会学の知識という論点がある。しかし、ここまで書いて疲れてしまったので、続きは後日とする。






朝日の紹介はあまりにも淡泊であった。執筆者紹介に「社会学」とあったことから、「社会学者」という肩書だったのだろうか。