「若者の現在」政治

「若者の現在」政治

教養ゼミナールで、

栗原彬「21世紀の『やさしさのゆくえ』」205-248頁

について、どの班からも栗原の言う「やさしさ」概念に対する疑問が出てきた。私も学部1年生のとき、塚田富治ゼミ―講義要綱には「読書好きよ、来たれ」と書かれていた―で同じ議論をしたことをよく覚えている。

やさしさのゆくえ―現代青年論 (ちくま学芸文庫)

やさしさのゆくえ―現代青年論 (ちくま学芸文庫)

生命への感受性、ヴァルネラビリテ、心の寛やかさ、この3つが「やさしさ」の成分であって、それらがどうして60年代末からの若者にのみ結びつくのか、という問いである。また、果たして未踏の領域とされていた<開放的―構造的>な「やさしさ」が、あるいは、70年には20歳の若者であった現在の60歳の「やさしさ」が、10年代には「政治」と「切り結ぶ」ことを達成したと言えるのか、やや楽観的にも見える。とりわけ、共苦の感性は心許ないようにも思えてしまうことがある。

横道世之介

横道世之介

21世紀版「やさしさのゆくえ」で引用されていたのが、『横道世之介』である*1。論文は世之介の「やさしさ」に焦点を絞っていて、確かに<開放的―構造的>な「やさしさ」の一歩手前がそこにあるのかもしれない。80年代後半に19歳であった世之介は、その約20年後、JR代々木駅のホームである決定的な「やさしさ」を見せる。ただそれは、どうしても<開放的―構造的>とまではいかないだろう。私としては、世之介の「やさしさ」と同時に、たとえば、Planned Happenstance Theory などと威勢の良いことを言わなくても、いいかげんな心構えでも人生なんかどうにでもなるという、ある時期のしあわせな学生像にとても興味を覚えた。世之介の学生生活は「流れ」で進み、その後の報道カメラマンとしての人生もまた「流れ」で進んだのだろう。周囲の人物の人生もまた、同じく「流れ」で進んでいく。大学はいつの頃からか、どこからともなくやってくる「流れ」に何となく身を委ねる、そうした人生のやわらかさを許容しなくなってしまったのかもしれない。

結局自分はこれまで誰も傷つけたことはないんだな、と早速結論づけようとした時、ふと横を歩く祥子が目に入った。ああ、そうか、と世之介は思う。誰かを傷つけたことがないんじゃなくて、傷つけるほど誰かに近づいたことがなかったんだと。386頁

人生は平凡でいいと思うけれども、19歳でこんなことがわかるのはいいな、と思う。

*1:『悪人』ではない。当時、日経で『愛の流刑地』連載が終わってからの朝日の『悪人』連載開始であって、新聞小説を読むことに消耗したことを記憶している。