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知人がある大学のキャンパス内で、その同僚から「そういう(権威ある人びとの意に沿わない)ことを言うと刺されますよ」と言われたとこぼしていた。それは脅迫であるのだから抗議するべきだと忠告したのだが、果たしてどうなっただろうか。
ここでも「刺される」かもしれないことに言及してみよう。いよいよ、来年の春、GPAが卒業要件となった世代が3年に進学する。そこでの懸念は、3年から入ることになるゼミの選考の際に、GPAがセレクティブ・サンクションを行う目安になりかねないことである。つまり、たとえそのゼミに関わる分野に関心が高く、また、その分野の講義について成績が良かったとしても、GPA(成績の平均値)の低さを理由として排除することが許容できるのか、という問題である。教員は言わば「余計な」仕事が増えることを回避するべく、そうした排除への欲望にかられてしまうかもしれない。いちおう、制度としてはGPAを進級要件に課していないのではあるが、運営上は「意図せざる結果」が数多生じてくるだろう。ゼミは一橋の教育の根幹であって、学生はそこに自らのアイデンティティを見出すことになるわけであるのだが―よく言われるように、どの学部に所属するのかと同時に、どのゼミに所属するのかが関心の的となる―、GPAは最初の選考の際のつまずきに「資する」ことになってしまいかねない。
これもまた「刺される」ような内容ではあるのだが、良家育ちで、親戚一同が研究者であって、学生時代の成績はもちろん優秀といった教員にとっては、すなわち、経済資本は確かに豊かとまではいかないが文化資本は恵まれてきたような教員にとっては(「売り家と唐様で書く三代目」の「売り家と」を「論文を」と変えることのできる教員もいるかもしれないが、そこまで言うとほんとうに「刺される」ことになりそうだ)、GPAは学修に対する自己責任を数値として表現するものとてしか捉えられないかもしれない。しかし、ブルデューの議論にしたがって、それらの資本をGPAに「交換」しているだけにすぎないのであるとしたならば、自己責任を持ち出すことは難しくなるだろう―GPAへの「交換」レートは、経済資本よりも文化資本の方が良い。GPAは教育学からすれば理論的基盤を欠いた仕組みであるし、ブルデューあたりの社会学からすれば資本の交換のメカニズムに組み込まれたものに過ぎないということになる。