監査社会

監査社会

質保証の勉強の続きである。
監査は会計の世界だけでなく、社会のあらゆるところで必要視されるようになりつつあることを批判的に捉えようとしている。Neaveの「評価国家」論よりも社会学の知見が活かされているので、私としてはとても面白く感じるのである。

監査実務家自身でさえ自分たちの判断の観点で以外で認識論的に良い監査を定義することはできないし、監査の本質をコントロールするという責任について多くの議論がなされているが、この品質が実際に何であるのかを知るという問題には手をつけていない。(41頁)

私の知りたいことは、まさにこのことであった。「良い監査」というものが成立し得ない理由は、そもそもの監査という営みの性格によるところがありそうだ。

もっと最近では、品質は生産プロセスの特殊性から分離され、抽象的かつ一般化可能な用語で表現されてきた。要するに、品質はエンジリニアニングからマネジメントの概念へと転換されてきたのである。(略)品質保証は、そのいわゆる「堅い」技術基盤から、トータル・クオリティ・マネジメント(TQM)の概念の中に見られる「文化的」強調へと移動したのである。(80頁)

この点は、教育機関におけるPDCAサイクルの強調に対する私の疑問につながる。ほんらいは、生産現場に関わる工学、統計学といった専門分野の極めて「堅い」テーマである。「抽象的かつ一般化可能な用語」というよりは、むしろ、「いい加減で恣意的な用語」に堕してしまっていないだろうか。エンジリニアニングの世界における品質概念の重要性はとてもよく理解できるのであるが、マネジメントの世界におけるそれは曖昧さが気になってしまって納得に至らない。

常識的な見解では、監査技術は多かれ少なかれ「機能する」から実務家に受け入れられると見るのに対して、システム的な見方では、技術および手続きは証拠を収集し加工するための方法として制度的に受け入れられるようになってきたために「機能する」と認知されるということである。(120頁)

高等教育の質保証もその通りだ、とは言わないように我慢する。

監査は「合理化された検査の儀式」であり、それは、形式的な統制構造や監査可能なパフォーマンス測定尺度に注意を向けることによって、安心を生み出し、そしてそれゆえに組織の正統性を作り出すのである。(132頁)

筆者も認識していることであろうが、もちろんここには「マッチポンプ」がある。監査の概念が持ち込まれることによって、それまでには存在しなかった不安や、組織の非正統性への懸念が生じることになる。

執筆時点では、高等教育の品質保証に関する制度的取り決めは、控え目に言っても乱雑である。(138頁)

勅許会計士の経験もある筆者の意見は面白い。当時の英国の質保証は、監査のプロフェッショナルから見て「乱雑」であったとは…。

訳者解説
パブリックセクターへの監査の導入はもとより、その実効性は全く証明されていないにもかかわらず、環境管理や品質管理の場面あるいは教育や研究の世界にまで監査が浸透している現象は、検証が儀式であると考えれば非常にわかりやすい。儀式性をもつからこそ、その本質的部分が深く検討されることなく普及可能となるのである。(228頁)
パワーの議論を突き詰めるならば、社会には監査を要求するプログラムが存在するが、実際に存在するテクノロジーとしての監査はそのプログラムを十分に満たすものではなく、それにも関わらず監査はますます蔓延しつつあるということである。(230頁)

私は儀式のための仕事をしていることになる。とても勉強になってなるほどと思うことが半分、儀式へ仕えることへの徒労感が半分である。質保証の本質的な意味を探すという研究は勝ち目がないだろうか。