京都系教育学会*1を終えて、一橋のGPAに関する議論を横目で見ている。そこで、GPA推進論者に共通する傾向が漠然と見えてきたような気がしている。
どうも、自律的な強い学生像を前提に置いているようだ。たとえば、ある官僚は自身の学生時代の経験―伝統的にGPAが「成功」している大学における経験―をいまだにひきずりつつ、GPAを「『やりたいことと、やらねばならん事のバランス』を日常的に考える良い機会」に役立つとして高く評価する。これは、そうした判断、思考、自省、を行うことのできる強い学生ばかりから構成されるキャンパスをイメージしているのだろう。しかしながら、そして相当の注意を心掛けないと俗流若者論に陥るところではあるのだが、必ずしもすべての学生がその官僚ほど素晴らしい判断力を持っているわけではない。GPAを一つの材料として「日常的」に自分を見つめることのできる学生が一般的であるという解釈は、あまり納得できるものではない。それほど学生は強いわけではないし、また、強くなければならないというのは暴力的な言説である。
ところで、自律的な強い学生はキャンパスにおけるコード(暗号)を読み解く力に長けている。これは「要領よく」、「抜け目がなく」といった表現で説明されてきたことであって、講義中の教員の発話に隠されたもの、シラバスの行間、あるいは、大学の様々な制度に埋め込まれたものを解釈することである。この解釈が得意であればあるほど、日々の学習を高い評価に繋げることが容易になる。SECIモデル的に言えば(「カッコ笑い」と言いそうになるのを我慢して)、たとえば初年次教育はコードをE、C、Iさせる営みであるのだが、しかし、コードはコードである限りそのすべてが「表出化」されるわけではない。残余の部分こそに、伝統的な大学関係者はそのアイデンティティを見出してしまうだろう。
一橋のGPAの目的の一つは、「学生の履修行動および学習態度の改善を促す」ことであった*2。これが成功しているかどうかは、おそらく学会で報告のあったとおりである。自律的な強い学生だからこそ履修行動や学習態度が改善されるのか、だからこそむしろ反発して改善されないのか、いや、そんな学生ばかりではないからこそ目的に達しないのか、どのような解釈が妥当だろうか。
このブログを迂闊に読んでしまった一橋生は不安に思うことがあるかもしれない。その場合は、次の仲正昌樹を読むと良いだろう。「自己決定」や「主体性」という言葉について理解を深めることができる。強い関心がないにもかかわらず、近年盛んな自主的な勉強会に出てみたり、「学生団体」を立ち上げたりする必要はない*3。大学の教職員はやるべきことがらがたくさんあるけれども、学生は日々の学習をこなすことで十分である。

「不自由」論―「何でも自己決定」の限界 (ちくま新書)

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*1:あるいは、「受容と共感」やアクティブ・リスニングが試される学会である。

*2:もう一つは、例の「社会的な説明責任」である。京都系教育学会の部会で、「タックスペイヤー」に対する説明責任が必要だという発言があって、その内容、および、それが暴言になりえることへの配慮の無さに対して、強く反論した。理解に苦しむばかりである。

*3:教員としては歓迎するべきことがらなのだけれども、がんばりすぎているように見えて、心配になることがある。