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日本図書センターの「どう考える?ニッポンの教育問題」シリーズ、これまでの3冊はどれも良書である。とりわけ00年代における学校から職場への移行(トランジッション)に関する政策動向、そして、その背景を理解したい学生の皆さんは、まずは同書を手にすることをお勧めしたい。


http://www.mhlw.go.jp/bunya/nouryoku/yes/index.html


同書でも紹介されている厚生労働省の政策の一つであったものが上記サイトである。教育に関係する政策の多くについて、他の領域の政策と比較して、そのあまりの慎重さに焦燥を覚える方もいるかもしれない。しかし、いたずらに政策の変更を促そうとすると、このYESプログラムのようにこれまでの証明書の取得者―若者が多いだろう―に大変な迷惑をかけることになる。
気掛かりな点としては、「一般的・汎用的能力」をそれでもなお、ある部分において育成するべきであるという主張である。そもそも教育機関において育成可能なものなのか、また、仮に育成可能であるとして知識ではなく態度や心構えに飛び付くだろうという論点、それらはこれまでも批判の対象となり続けてきた。この連休最終日、学術的ではまったくない、論文や書籍という媒体では語ることのできない、単なる私の経験談を開陳させて頂くこととする。その内容は、「一般的・汎用的能力」を特定することの困難についてである。
このブログの自己紹介欄にあるように、私は大学を卒業後、3社で会社勤めを行った。3社とも、私と同じ大学の出身者はあまりいない。最初の企業(そして、そのグループである2社目)は創業者のキャラクター、そして、その当時としては斬新な事業や資金調達が有名であった*1。garage entrepreneur という言葉があるが、創立時はほんとうにガレージに事務所を設けていたそうである。この辺りの詳細については、(私は異論を持っているものの)創業者に関する連載が進行中の某週刊誌をご覧頂きたい。それはともかく、形式的な手続きに価値を認めないという文化に強い衝撃を受けた記憶がある。たとえば、「ほう・れん・そう」の重要性を否定するわけではないのだが、しかしながら、その手続きにかかる時間がもったいないとされることが多々あって、思い付きレベルの事業(=おそらく、「考え抜く力」が要らない事業)が進められることもあった。そこで必要とされる能力は、現在言われている「一般的・汎用的能力」、あるいは、移転可能な能力といった概念ではどうにも説明できない印象があるのだ。
人生の紆余曲折(=大学院修士課程)を経ての3社目は、伝統的な企業グループの系列にあるコンサルである。この企業は、まさにそのグループのカラー通りであって、とにかく形式的な手続きを重視する。意思決定にはそれなりの時間がかかる。収入印紙1枚を消印する手続きさえ、私にとっては驚きであった。そこでは、確かに「一般的・汎用的能力」は重要そうに見えるのだが、ただそれ以上に、そのグループの文化に対する「トレーナビリティ」が必要であるようにも思えた。もちろん、この場合の「トレーナビリティ」は誰しもが備えているというものではなく、それを要求する者それぞれの恣意性が反映したものである。
このバイアスだらけの経験談からの、出まかせのいい加減な推論は、「一般的・汎用的能力」の特定に固執するよりも、企業規模毎、地域毎、業種毎…、もはや「一般的」とは言えないものの、それぞれに「一般的・汎用的能力」は異なるとの想定を置いた方がはるかに生産的ではないか、ということである(少なくとも、時代によって「一般的・汎用的能力」は異なっていただろう)。大企業を想定して作り込まれている「一般的・汎用的能力」を中小、零細企業に就職する学生に求めることの過ちを認めてしまった方がよい。そして、この場合、だからといって明るい展望があるというわけではなく、日本的経営/OJTモデルに立ち戻るのでなければ(もちろん、そこにはまた別のこれまで議論が尽くされてきた大きな問題がある)、教育機関の困難はさらに増すことになりそうだ。
この与太話の続きは次回以降の連休に。

*1:ただし、このキャラクターについては、メディアや研究者が騒ぎ立てていただけでもあって、また、現在でもそうした人びとが話題のネタにするだけであって、ビジネスの現場ではほんとうにどうでもいいことであった。そのことが、創業者を夢であった学校教員ではなく起業家に、日本ではなく米国に向かわせたのではないか、とも思うのである。