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今日は自主ゼミを行いました。学部生8人に集まって頂きました(そのうち、半数以上が経済学部というのは、偶然のことだと思います)。
私が提示した論点の1つは、震災の復興期において権力によって紡がれるであろう「回復の物語」の支配性に対抗し得るかということでした。たとえば、ある大学は「再生に取り組む」ことを課題として掲げるのですが、そこにあるべき「再生」の方向性、つまり、元の状態にそっくりそのまま戻ることが、社会制度についてのみならず個人の内面についてまで埋め込まれていることに危惧を覚えます。しかし、検討文献が示すように個人の「回復の物語」は多様です。物語に複数の筋があったり、回復できなかったり/しなかったりということは必ずあることです。私の関心は、必ずしもそっくりそのまま戻るわけではない「回復」がいかにして可能かについてありました。
今日の参加者は理論への関心が強かったようで、とても頼もしいことです。以上のような私の実践への関心とはややズレがありましたが、それゆえに理論の勉強の必要性を強く感じました。次のような文献を読んでみる必要があるかもしれません。

ストレスと情動の心理学―ナラティブ研究の視点から

ストレスと情動の心理学―ナラティブ研究の視点から

ナラティヴ・セラピー―社会構成主義の実践

ナラティヴ・セラピー―社会構成主義の実践

もう1つ、テクノクラートによる知識の皮相な「利用」について論点を出しました。大学で生産される知識―たとえば、現在問題となっている原子力工学や、集まった皆さんの多くが学んでいる経済学―が、官僚によって独自の意味付けが行われて「利用」されていくことについて意見をお聞きしました。また、皆さんからは、なぜ「御用学者」はそうしたことについて関心を抱かないのか、「御用学者」の範囲はどこからどこまでか(政府の審議会に参加する学者をイメージすることは容易だが、『ホンマでっか!?TV』に出演する学者は該当するのか!)という問いを頂きました。その場では私なりにお答えをしたつもりですが、まさしく知識社会学の課題としてこれから検討を続けていきましょう。
また、ゼミが始まる前に、ましこが梶田の価値を十分に認めながらも、手厳しく批判している理由がなかなか掴めないという話しをしていました。もう1度、梶田の著作に戻って考えてみたいと思います。