読書と社会科学 (岩波新書)

読書と社会科学 (岩波新書)

1994年4月、私が大学に入学した際、指定されたテキストの1つです。

社会科学の重要な学説―さしあたり、それを通じてわれわれは社会科学を学んでいるわけですが―は、何か大きな、現実的関心があって生まれました。といっても、まず明確な問題があって学問がそこからはじまるというわけではありません。現実的な問題は、学問的な解決を必要とすべき問題として、学問以前に、あらかじめ明確に意識されているというかたちでは存在してはいないのです。肉眼では見えない。掘りおこしてはじめて問題が問題として出てくる、という不明確なかたちで問題は存在しています。
何か問題があるらしいが、何を問題とすべきか、問題とすべき対象は見えない。日常語の世界にうずまり日常語に頼っていては、学問的に解明することができないだけでなく、解決すべき問題そのものを明確には捉えられない。で、学術語を組み合わせた概念装置をつくり、それを駆使することで問題を発見し解決する。あるいは解決しながら問題を捉え直す。(pp.146-7)



大学1年生の当時、私はこの本で書かれていることの意味をほとんど理解できませんでした。渾身の力で書いたつもりの期末レポートは、「日常語を脱しきれていない」という合格基準のうち最低ランクの評価でした。
そして、そのレポートをまさに書いていた1995年1月17日の早朝を起点とする数年間、それまでの人生の半分を過ごした好きと嫌いの綯交るあの街に対して、直接的な貢献を何もすることができませんでした。各団体の求めに応じて、あるいは、徒手空拳でボランティアに出掛ける同級生を横目に掛けるだけで、ただひたすらに日々が過ぎるのを待っていました。それは、私の思考が日常語に頼りきっていたためであるかもしれません。そもそも、ほんとうに解決しなければならない問題を捉えられなかったのでしょう。今となっては、彼我の相違の理由を「学術語を組み合わせた概念装置」―たとえば、教育社会学の概念のひとつ―によって説明することは容易です。もどかしい思いがするだけで何もできなかったことには、それなりの理由がありました。
たとえ、学生の皆さんが同じような思いを持つことがあったとしても、わが身を苛む必要はまったくありません。もどかしい思いを大切に記憶しておくことが大事です。今は、5年後、10年後、20年後、30年後…、皆さんが掘りおこさなければならない問題に備えるべく、社会科学の古典に挑戦してみたり、語学や数学の復習をしてみたり…、大学で学ぶべきことについて研鑽を積むべきだと思います。
勉強会をしたいという要望があれば応じます。冒頭の岩波新書でも構いませんし、もしくは、

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

でも読んでみましょうか。