何はともあれ、学生のみなさんのなかに、授業評価に対する関心が高まったことはとても喜ばしいです。
さて、授業評価というのは本当に難しい営みです。CiNiiで授業評価を検索すると、1,800件以上の論文が見つかります。それだけ奥深く、単なる思い付きでは実施できないものです。
授業評価に対する否定論の一つに、学生と教員との信頼関係を損なうというものがあります。今回の授業仕分けは、まさに信頼関係に累を及ぼします。当初の構想では、リスト化した淘汰するべき「クソ授業(ママ)」を大学に提出しようとするものでした。しかし、そのとき既に信頼関係は失われているとすると、「実は教員、職員のなかで『学生仕分け』―『クソ学生(仮称)』のリストアップ―をしていたところでして、あれ、あなたの名前もここにありますね、理由は貨幣的経済論の講義が興味深いものになるように働きかけなかったことのようです、あなたは淘汰の対象者です」などと極めて杜撰で恣意的な評価―「仕分け」―による返り討ちに遭うかもしれません。こんな事態は、誰にとっても不幸でしかありません。全学生から「クソ授業(ママ)」のデータを収集すればよいなどという的外れで呑気な意見もあるようですが、そんなことをすれば信頼関係は崩壊します。恐ろしい状況です*1
信頼関係を損なわないように、現行の「授業と学習に関するアンケート」や、また、みなさんの先輩である takekan さんが学生時代に実施した教官評価(当時の国立大学の教員は「教官」でした)は、実に慎重な配慮の下に実施されています。また、つくばの mnaoto さんと議論していた学生の主張は理解できるところであって、教員と学生の感覚が異なっているのは当然です。教員と学生の間には背の高い衝立があって、お互いに見えない部分が必ず存在します。学生団体である一橋通信の授業評価は、「授業と学習に関するアンケート」とはまったく異なる目的を持っていて、それは多くの学生にとって必要なものだと思います―従来の一橋通信の手法は、授業仕分けのそれとは異なっていて、信頼関係を損なうには至らないと理解しています*2
授業評価のすべてが良いわけでもなく、また、すべてが悪いわけでもありません。その影響の検討も含めて、目的に応じて周到に準備する必要があります。この点で、授業仕分けは杜撰であると思います。影響の大きさからして、学生の遊びであるという逃げ口上は許されないでしょう。


念のために付け加えます。私は、学生が授業評価を主催すること自体を問題視しているわけでは決してありません。十分な準備のもとに実施するのであれば、むしろ応援したいとも思っています。そのために、たとえば、私が示した危惧に対して説得的な反論をして頂きたいと思います。

*1:文科省への就職を志望する学生がこの企画を肯定していることからすると、キャリア組のなかには教育を第一に消費とみなす―学生を顧客であるとみなす―層がいるのかもしれません。かつてある国に出張した際、その国の学生が「私たち学生は、決して単なる消費者ではない」と断言していたのは、ほんとうに羨ましいと思いました。

*2:時代錯誤社@駒場の「逆評定」に相当します。学生にとって重要な情報源であるのと同時に、学生と教員の信頼関係を損なうほどのものではありません。なお、私は駒場の「逆評定」を毎年入手しています・・・。