先日のエントリをご覧になった方から、「大学におけるゼロトレだ!」というつぶやきを頂いた。私にはあの制度がゼロトレであるという理解は必ずしもなかったので、あらためてゼロトレの特徴を確認しておく。


排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異

  • 作者: ジョックヤング,Jock Young,青木秀男,伊藤泰郎,岸政彦,村澤真保呂
  • 出版社/メーカー: 洛北出版
  • 発売日: 2007/03
  • メディア: 単行本
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「1) 犯罪や逸脱にたいする寛容度の低下。
2) 目的達成のために懲罰を利用し、過激な手段を用いることも辞さない。
3) 礼儀や秩序、市民道徳の水準を、知られうるかぎりの過去まで戻る。
4) 市民道徳に反する行為と犯罪が連続したものとみなされ、「生活の質」を維持するための規則を破ることは、重大な犯罪とつながっているとみなされる。
5) 市民道徳に反する行為と犯罪には関係があり、市民道徳に反する行為を監視しておかなければ、さまざまな形で犯罪が増加すると信じられている。
6) そうした考えを広げるために、同じテキストが何度も繰り返し言及される。それは、1982年の『アトランティック・マンスリー』誌に掲載され、もはや古典として知られるようになった、ウィルソンとケリングによる「割れ窓」という論文である。」 316頁より



犯罪や逸脱を「GPA(成績)が低い学生」と、懲罰を「卒業させない」と置き換えてみる。1)、2)については、そのまま意味が通りそうだ。「卒業の質的保証について社会的な説明責任を果たす」の題目のもとに、学生に対する寛容度が低くなり、過激な手段が用いられている。3)については、ユニバーサル段階の大学のしくみをエリート段階のそれへと戻すわけではないのだ、あまりあてはまらない。4)、5)に関連して言えば、社会的な説明責任を維持するために「GPA(成績)が低い学生」の存在を許さない、と換言できるだろうか。6)について、本書はそれが誤りであることを指摘している。ゼロトレと「割れ窓」理論の関係を否定している。あの制度に関しては、より問題は深刻である。他の考えられ得る諸制度ではなくて「卒業させない」懲罰こそが、「GPA(成績)が低い学生」に対して「学生の履修行動および学習態度の改善を促す」点で効果があるといった理論やら実証やらは見たことがない。思い込みに依拠して制度の導入を急いたのではないか。とても哀しいけれども、「大学におけるゼロトレだ!」というつぶやきは的を射た表現であったのかもしれない。
学内の反対論者の方もあのエントリを読まれたようだ。しかしながら、だからといってエリート段階・マス段階の講義(教員じしんがかつて受けていたような講義)のあり方を今後も続けていればよいとか、学生、とりわけ、成績のふるわない学生に対する指導/支援はこれ以上不要であるとか、いわゆる「大学改革」のあらゆることに反対であるとか、などと私はまったく思わない。11月、12月になるにつれて、学生が必修の講義でさえ出席しなくなる理由を学生の怠惰ばかりに求めるのは誤りである。