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ある仕事をお引きうけした。しかし、今になって遅疑逡巡し始めてしまった。
「戦後教育学の敗北」、「教育学の混迷」という問題提起が行われたのが2007年のことである。戦後の著名な教育学者の業績の意義をなかなか掴みきれない私にとっては、それらの問題提起は極めて納得できるものであった。時代の文脈に応じたある種の「反動」的政策に対する分析・否定はもちろん必要であったのだろう。しかしながら、それが他の領域の人びとに理解できるかたちで行われたのか、甚だあやしいのである。運動のレベルであっても、同様のことが指摘できる。「進歩的な」学校の先生の言うことに、どれだけの子どもやその父母が共感できただろうか。
その年、今回の仕事の依頼先で、当事者がその場にいないにもかかわらず、以上の問題提起に対する糾弾が生じた。「戦後教育学とは何のことだ?」、「教育学をまったく理解していない暴論だ」、興奮した人びとによる凄まじい主張が延々と続いた。そこは、もはや聴衆の感情にうったえるアジテーションの場でしかなかった。私は懇親会出席の希望を取り下げて、とても残念な思いでその場を後にした。せっかくの年1回の研究の機会が台無しに思えた。その後、声高に叫んでいたアジテーターによる「戦後教育学批判」に対する批判論文を期待していたのだが、残念なことにまだ目にすることはない。
以上のような経緯のあるところからの依頼なのだ。まだ、私のわだかまりは消えていない。当時のアジに対して覚えた印象―「教育学」の正統なる(?)継承者に対する若干の不安―を書いてしまおうかどうか。3年が経過して、やっと吐露できる話しである。