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週末、ある研究会に出席した。近年の大学教育改革を新自由主義の文脈で読み解くというテーマであった。
もう少し理解を深めたかった点がいくつかある。第一に、確かに大学の行財政や管理運営に関する改革は、新自由主義と称される「主義」に基いて行われたかのようである。ただし、例示された個々の政策、とりわけ研究開発政策がやや恣意的に選択されているように見えたことに加えて、大学における知識伝達の過程に対してはその影響は必ずしも強くはないと感じた。新自由主義であると片付けることのできない部分は、かなり多く残されているのではないだろうか。研究開発政策に関して言えば、かの筑波大学でさえ、わざわざ「産学連携」のスローガンを繰り返さなければならない状況が続いてきたことは周知の通りである。当初の「新構想大学」の期待通りにはならなかった。また、教育の点では、それほどまでに改革が「成功」しているのであれば、たとえば、FD業界における「深海魚」なる隠語は駆逐されていたはずであろうし―しかし、愛すべき「深海魚」が存在するという報告はなくならない―、また、カリキュラムのほとんどは産業界によって作成されたものになっていただろう―しかし、「社会人基礎力」に飛び付く講義は数少ない。JABEEですら、現場の抜け目がない対応の存在は十分に想定できる。教育改革には、政治過程・政策過程の用語で言えば「粘着性」が高い部分がありそうだ。第二に、新自由主義と大学教育の関係をテーマにするならば、その前段階として提起された福祉国家と大学教育の関係をあらかじめ示してほしかった。

新自由主義―その歴史的展開と現在

新自由主義―その歴史的展開と現在

ただし、日本の経験は、福祉国家というよりは、開発主義国家という表現が相応しいとする論者もいる。報告は先進国の共通性を強調したものであったが、(もし、開発主義国家の枠組み―報告も引用していた「国土の均衡ある発展」―が適切であるならば)大学教育との関係で新自由主義国家への「体制」の組み換えにおける日本の独自性を知りたいと思った。ピノチェト・チリにはシカゴボーイズという分かりやすい推進者がいたわけだが、その周縁の実験が日本に採用されるという際に、そうした推進者を特定しようとしても若干の戸惑いを覚えてしまう。
どうも、新自由主義という言葉は、社会学と同じように、稲光の性質があるように思えてならない。物事の性格をある一瞬だけ明確に捉えることができるのだが、辺りはすぐに暗闇に戻ってしまう。こんな煮え切らない態度を取っていると、新自由主義批判をしてきた教育学の重鎮がいる某学会の自由発表で、また罵倒されてしまうんだろうな、とも思いつつ。