文化と不平等―社会学的アプローチ

文化と不平等―社会学的アプローチ

あるプロジェクトを進めようとするとき(あるいは進めまいとするとき)、経済合理性の観点や手続きの正当性の観点から議論が行われることがある。こうした議論は納得できる部分もあるのだが、納得できない部分については同一の位相で逐一反論することになる。
一方で、どうしても苦手なのが、「身体化された文化」を前面に出して行うような議論である。他者の文化を直接的、間接的に蔑むことを通して*1、自説の優位を主張する場面に出くわすことがある。とりわけ「大学観」が大きなテーマとなる際には、経済合理性や手続きの正当性というよりは、(曖昧な言い方にしておきますが)文化のヒエラルヒーがこれまで重要な意味を持っていた。しかしながら、面倒なことに、近年の「大学改革」においては前者が幅を利かせていて、後者はかなり分が悪い。形勢の悪さを自認しているからこそ、他者の文化に基づいた「大学観」が絶対的に「正しく」なく、「洗練された」ものではないことをさらに強く主張するようになる。そこには歩み寄る余地がまったくなく、当惑してしまうのである。

*1:この蔑みの方法もまた、とても「正しく」、「洗練された」ものであるようだ…。