松尾版「農業少女」を観に行った。シアタートラムで野田版を観たのが2000年のことである。もう10年が過ぎてしまった。
90年代の「大衆の気分」(都罪の台詞である)の表層を思い出した。2002年のワールドカップの開催を目前として盛り上がること、1995年=ボランティア元年以降に定着したかのように見えること、セラピーという言葉が流行したり心療内科が身近になったりすること、そして、それらの表層の醜悪さ、胡散臭さを思い出すのだ。熱狂の傍らにいる醒めた人びと=本当に日本を考えている=都罪、本当に日本を考えている人びとを卑怯者という一方で同時に惹かれてしまう=百子、劇作家は思いを百子に代弁させようとするのだが、それはあまりにも弱々しい試みであって、都罪の魅力にはとても勝てない。
10年ぶりに観て思うのは、不登校ナショナリズムの2点についてである。不登校言説の消費のされ方に、いち早く着目していたということなのだ。わざわざ台詞では「不登校症」として「症」を付けているように、それを病理ではなく個性であると捉え直そうとする、確かにある人びとにとっては必要な作業ではあるものの、しかし、決してそこに本質があるわけではないとするメッセージであったと理解する。「学校に行っていない高校生」は言説は消費されるにすぎない。もう1つは、想像の共同体に関わる点である。都罪のようにわかりやすいアドルフに対する批判は容易い。しかし、その批判の側も、ドヴォルザーク堀内敬三、夜行列車、そして、稲作(農業少女!)といった郷愁に訴えかけるようなもの、つまり、「無名戦士の墓と碑」に依拠せざるをえず、想像の共同体を克服することができない。都罪に対する批判を都罪の地平でしか行えないことに、何ともいえない後味の悪さが残ってしまう。本当に良い芝居である。