ある大学院教育のシンポジウムに出席する。会場から電気を盗んでPCを動かす社会人らしき遅刻者の横で考えていた。
一つは、大学院におけるアスピレーションの加熱、冷却、再加熱のメカニズムについてである。加熱・再加熱といった炊き付けの仕組みについては、プログラムの意図どおりによく説明されていた。しかし、あるはずの冷却の仕組みがわからない。学内の各種公募に通ることの叶わなかった院生に対して、どのような配慮を行っていたのだろう。「能力がない」とあからさまに切り捨てるのではなく、「別の道が向いている」と徐々に納得させる道筋こそ、会場の出席者が知りたかったことではないだろうか。
もう一つは、民間への就職における専門知識無用論と有用論のせめぎ合いについてである。無用論者は、所詮、修士論文などというものは新しい学習形態―たとえば、アクティブラーニング―などの延長に過ぎない、多様な人びとと協働すること、学び続けることこそが重要であると言っていた。行き着く先は、例の陳腐なトレーナビリティ論である。この文脈で本田由紀が引用されるのは間違っているのであって、その間違い自体や引用の作法について誰か教えてあげた方が良いだろう―このままでは本田に対して失礼である。一方、有用論者は、大学院における基礎的な学力や技術は企業でも通用すると言う。しかし、その学力や技術が何を意味するのかを明示するに至らず、無用論に抑え込まれてしまっていた。有用論には何とか頑張ってもらえば良いとして、執拗に学門知を貶めようとする無用論の背景が気になってしまった。知識の「正統」性をめぐる象徴闘争の表れと見るべきか。
それにしても、「考える力」論はいい加減である。2年間かけて執筆する修士論文の「考え」と、せいぜい1、2時間の面接試験における「考え」を、「戦争の準備、そして、実戦」になぞらえるのはあまりにもご都合主義だろう。1、2時間程度の「考え」が本質的なものなのか、「考える力」論は考えていない。おそらく民間で必要とされる「考え」は、現状のあり方を是としたうえで、費用や時間といったコストとの兼ね合いのもとに為されるはずである。ほんとうに「考え」てしまったら、たとえば「変化に対応する力」の空虚さや、民間の途方もない矛盾に気付いてしまうだろう。もっと言葉を尽くして説明されなければならない。