アクティブラーニングに関するFDに参加した。
学生を活性化させる、という表現が出てくる。私の偏見が拭えないことも理由の一つではあるのだろうが、その表現はどうしても知識や技能を置き去りにして、態度ばかりに着目しているように聞こえてしまう。学生どうしのディスカッションの重要性はよく理解できる一方で、そこでなかなか発言できない学生を「良くない」、「発言できるようになろう」と評価することに違和感を覚える。
それをより強く感じたのは、学生にとって「基礎・基本」が大事、「与えられる場にうまく適応すること」が大事という議論においてである。そもそも、「うまく適応すること」を教育できるのか、また可能であるとして、その適応は教育的に価値のあることなのか、よくわからない。ディスカッションの場では、その場のルールや雰囲気に則って発言をしなさいということになるのだろうが、ルールや雰囲気の恣意性のために発言できないということもあるだろう。特に、大学の講義におけるディスカションには独特のルールや雰囲気―それらは、当たり前のように存在する―がある。これを突き詰めると、ルールや雰囲気を状況に応じて察することが大事、つまり、どんなに新しい状況であってもすぐにそれを柔軟に受け入れるといった極めて素朴なトレーナビリティ論に陥ってしまう危険性を感じた。さらに、ややこしいことに、同じ適応に関する議論の文脈で、論者の一人は教員が講義に適応することは「職人芸」であると言う。適応という言葉があまりに融通無碍に使われている。
そして、「つまらない」基礎・基本の講義に学生を誘因する方法として、キャリアに関連させるといったことが挙げられたこともあまり納得できるものではなかった。結局は、「教育で始末をつける」路線である。いかに「つまらない」ことであっても、何とか内在的に学生の関心を持たせることはできないだろうか。
明日は、某所にて同様の勉強会に参加する予定である。