問題はツイッターである。ここでの話しは、教員がツイッターを利用することで効果的に授業を行うことを意図している場合のことではない。教育工学は好みではないものの、必要な学問であることは認識している。
学生に講義中のツイッター使用を認めるかどうか、あるいは、そもそもそんな問いに意味がないのか、考えなければならない。高等教育をテーマとしたある講演に参加したらしいツイッター利用者の囁きを見ていると、スラングで言えば「脊髄反射」に過ぎないものがほとんどであった。演者や講演の企画者はそれを見て落胆するのではないか、感想はよく考えて伝わる言葉に置き換えたうえでその場でみんなに明らかにすればよいではないか、と考え込んでしまった。今はまだ、ツイッターを使うことそのものに新鮮な意義を見出す(陶酔?自慢?)段階にあるだろうから良いのだが、今後、それが人びと(とりわけ、象徴を巧みに操る人びと)にとって必需品となるのか、あるいは、遅れたテクノロジーとして嘲笑の対象となるのか、まだ読めない。どちらにせよ、ツイッターの性格をよく研究しなければならないし、そのうえで、ルールを考えなければならないのだろう。今年はまず、本学の講義や高等教育関連の学会などにおけるツイッターの使われ方を観察してみようか。学会の「脊髄反射」はあまり見たくないけれども…。