ある民間教育研究団体から、高等教育の現状(とそれを対象としたの研究の現状)について相談を受ける。相談を通じて、やりきれない思い―団体に高等教育研究者がほとんどいないこと、私なんかの研究者の末端に話を持ち掛けざるをえないこと―が生じてきた。

清水義弘、その仕事

清水義弘、その仕事

教育科学論争の残した学問的意義は、それぞれの立場によって総括されてきた(と、弱々しい気持ちながらも思う)。いくつかの総括の是非はさておき、克服するべき二つの課題がある。
第一に、政策科学としての立場を取る教育社会学の歴史を「正史」とみなす、大きな潮流に対する異議申し立てである。政策文書が盛り込まれた教育社会学者の著作集を何度読み返しても、その意義を理解することができない。どうしても「教育計画」という科学の名の下というよりは、学問の確立のための恣意的な政治的働きかけによって、当時の国民を壮大な政策実験に巻き込んだと見えてしまうのである。
第二に、高等教育研究が「正史」に連なる研究者によって行われている状況の打開である。とはいえ、高等教育研究をリードしているこの本の寄稿者は、教育科学論争の担い手やそのすぐ下の世代であって、論争の言わば「密教」性によく通じている。問題は、「顕教」にしか触れていないさらに下の世代―私の世代―にある。独特の出自を持つ高等教育研究のバイアスは気付かれぬまま、次々と数量的手法を駆使した「政策提言」、「インプリケーション」が生まれていく。しかも、そうは言っても教育社会学が特有の反省性を持っている一方で、高等教育研究においてはそれが現れない。
私の世代の研究者のなかでも、早い者はなんとすでに中教審関係の委員となっている…。なんともいえぬ思いがする。