経済産業省のある文章によれば、日本の大学の教育学部には「じめっとした雰囲気」があるらしい*1入梅の時期に合わせて、大学教育に関する「じめっとした」検討をしてみたい。
GPA制度導入の目的は、学生の学習意欲の増進や、大学教育の質保証に関する社会に対する説明責任であると言われる。しかしながら、成績の平均値の提示ごときで、学習意欲が上がるとはとても思えないし、たとえ上がったとしても後ろ向きな学習態度の醸成を示しているにすぎない。また、説明責任の対象である「社会」なるものが、具体的に何を指すのかは言わずもがなであるし*2、たとえ「社会」に対して説明責任が必要なのであったとしても、その最適な方法がGPAであるとは限らない。ともあれ、今さらそんな話しをしても見向きもされないので、少し違う議論をしよう。
GPA制度には、成績不振者の把握、学習改善も期待されている*3。ここで問題は、大学のカリキュラムが履修主義であるのか、修得主義であるのか、ということである。これまで、大学には単位制度があるのだから、一応は修得主義であったとは言える*4。しかし、GPA制度、CAP制度を具体的施策とした「単位の実質化」の議論の出発点にあったように、大学のカリキュラムは実際には履修主義として捉えられていた。成績が優であっても、良であっても、可であっても、学生は勉強したとみなされていたし、学年進行に従って進級するのが「当たり前」とみなされていた。GPA制度の導入は、大学の教育責任の強調と合わせて、修得主義への転換の表明とも読み取ることができる。
そこで、成績不振者の学習改善といった場合に、修得主義であるのならば、学生に対してあくまでも、低い成績を取ってしまった授業に粘り強く再チャレンジさせて、知識を身に付けさせなければならない。そのためには、教職員や院生によるきめ細かい指導が不可欠である。知識不足を放置したままで、進級・卒業のためにGPAの値を上げるべく他の「良い成績の取りやすい」授業で挽回する、成績不振を「こころの問題」と捉えてカウンセリングの専門家に問題を丸投げすることは(言わば安上がりの方法は)、ほんらいのGPAの趣旨からは外れることになる。ところが、GPA制度がカリキュラム論に即して議論されてこなかったために、こうした問題が挙げられていないのである。

*1:分かる気もするが、とても悪意のある書き方である。

*2:たとえば、大学のある街に住んでいる市民、が想定されているとは思えない。

*3:これもまた、GPAが唯一の方法であるわけではない。

*4:日本の単位制度の問題点については、この本が分かりやすい。

改めて「大学制度とは何か」を問う

改めて「大学制度とは何か」を問う