キャリアラダーとは何か―アメリカにおける地域と企業の戦略転換

キャリアラダーとは何か―アメリカにおける地域と企業の戦略転換

複数の気鋭の若手教育社会学者によって訳されたキャリア論である。訳者にとって、本書がキャリア論とされるのは大いに不服であることは承知のうえで、あえて私が本書をキャリア論に位置付けるのは、個人の能力に焦点を合わせた流行のキャリア論に対して、本書がその欠点を補う新しい視点を提供するためである。
私が気になったことを三点挙げておく。第一に、日本の大学教育はどのような示唆を得ることができるか、に関してである。とりわけ、ソフトスキル―時間管理、礼儀、葛藤・対立への対処―の訓練の担い手は誰か、という点である。第1章において、その担い手は労働力媒介機関であることが示されているものの、実際の指導はプログラムの参加企業において行われるOJT、徒弟制によるものであるようにも読める。コミュニティ・カレッジは、プログラムのもとでCADの操作のような技術者の育成、第二言語としての英語教育等に努めるようであり、直接的にソフトスキルを身につけさせるわけではないようだ(言うまでもなく、カレッジの時間割や単位制は時間管理の重要性を意味するのだが)。訳者が「いとも簡単にすべり込む」と表現して注意を促すソフトスキルのある部分について、日本の大学教育が対抗軸をどのように示すのか(また、示すべきかどうか)、あるいは、将来の日本版キャリアラダー戦略の中にどのように位置付けるのか(また、位置付けるべきかどうか)、深く知りたいと思う。第二に、日本において職務分析に基づく諸施策が妥当かどうかである。先日「仕事のゆうずう」について触れたばかりであるが、仕事上の臨機応変は一方で働きすぎを生み出すものの、他方で労働者にやりがいや協調の楽しさをもたらすこともある。職務分析に基づいて賃金や職位を属人から「属仕事」へ転換させるのあれば、こうした従来の仕事上の慣行についてもその是非を検討しなければならない。また、最近のいわゆる職務給(役割給と言っても良い)の導入は、ネオリベラリズムに親和的であったことを忘れてはならない。第三に、キャリアラダー戦略の守備範囲を、やや狭く見ている点である。研究としては非常に慎重であり好ましいとされるわけだが、まさしく戦略としての政策提言としては、ネオリベラリズムへの転倒を警戒しつつ、もう少し幅を広げても良いのではないだろうか。確かに本書で扱われる事例は(準)専門職が多く、そもそもキャリアラダー戦略に適しているものである。しかしながら、特に訳者が研究してきた非典型雇用に関する示唆がないとは言い切れないだろう。すべての戦略の導入は不可能であるとしても、部分的にせよ導入が可能であり、実効性のある戦略も存在すると思われるのである。