ある人材関連企業では、コミュニケーション力を略してコミュ力というらしい。このコミュ力、対人関係を円滑にするという意味では確かに必要な力であり、否定する必要はない。しかし、企業が個人に求める能力として挙げられる場合、事情はまったく異なったものとなる。
論点の一つは、感情労働に関連することである。頷く、相槌を打つ、目を見て話す、ほほ笑む、繰り返す、相手を批判しない、文脈(空気)を読む、といった技法が、あくまでも職業上の技法として身について、コミュ力があると評価されるとしよう。しかし、そうしたコミュ力を他者に見せる自分は偽りであり、「ほんとうの」自分は別にあるのだとして矛盾を感じる場合、また、その矛盾の原因が偽りの自分と「ほんとうの」自分の相違にあることに気がつかない場合、その個人の感じる辛さは如何ほどのものになるだろうか。さらに、そんな辛さをまったく感じることなく、コミュ力を駆使することは当然のことであるとして職業上の成功を収めているのだとしても、それはそれで心配である。専門的な知識とは違い、コミュ力は人格に深く関連するものである。職業に対して人格までをも動員することで、長期的な心的負担の蓄積はないのだろうか。企業が個人に求める能力としてのコミュ力は、このような個人の感じる辛さを捨象する。
論点のもう一つは、その概念の曖昧性にある。例えば、コンピテンシー・ディクショナリーに基づいて、表出される行動としてのコミュ力を評価しようとしても、それはあくまでも主観的なものである。個人の行動のほんの一部の特徴的な点だけを取り上げて(取引先とのトラブル対応、サークル内部の人間関係の処理…)、コミュ力の有無を評価できる。企業から見て好ましくない行動を取る個人は、厳格な理由を説明される必要はなく、ただ単にコミュ力がないとして排除されることもあるだろう。コミュ力は、恣意的な運用が十分に可能な概念であるにもかかわらず(実際に恣意的かどうかは別として)、個人、とりわけ経験の浅い学生を当惑させる。学生によく考慮してほしいのは、コミュ力の重要性を主張する企業人、一部の経営学や教育学の研究者にとって、それが有利な概念であるということである。例えば、成功した経営者に本当に十分なコミュ力が身に付いていたのかどうか、「私の履歴書」等を通読して判断してほしい*1。コミュ力が不十分であったとしても、知識や義侠心といった、それを補う別の力があるとことに気が付くだろう。曖昧な概念に振り回されることなく、物事の本質を見抜く力こそ必要である。

*1:例えば、東京急行電鉄の創業者、五島慶太はどうだったでしょうか?