蛍光灯とエアコン

以前の勤め先の一つと現在の勤め先とで共通していて、最初に勤めた大学ではあまり見かけなかった習慣がある。それは、教室に入った学生が誰一人として照明や冷暖房を操作しようとはしないことである。たとえば、履修する講義がない時間帯に空き教室で待機したり、次の講義を受けるために早めに教室に入ったりする場合に、教室を快適な空間にしようとすることがない。夏の南向きの教室で窓も開けないまま100人の学生が汗だくになっている、冬の北向きの教室で、外套を身に着けたままで寒さに震えながら、BYOD機器(スマホやノートPC)で手元だけの明度を確保―まるで100の蛍が飛んでいるかのよう―しているのを見る度に、部屋全体を明るく、暖かくできるスイッチが黒板の横にあるので誰かが押せばいいのにな、と思うのだ。この習慣が大学ごとに違うのか、時代によって違うのかについては、私の経験だけでは判断できない。大学教員の皆さま、お勤め先ではいかがだろうか(もちろん、大学によっては「集中管理」のために教室では操作できないかもしれない)。なお、最初の勤務校では学生は高い授業料を払っているのだからエアコン使用は権利とでも言わんばかりで、サークルで利用したり単に暇な時間を過ごしたりする空き教室のスイッチをすぐに操作するので夏は涼しく冬は暖かかった。それはそれで高騰する電気代という別の問題が生じるのが悩みどころではある。
かつてある場所で、このことは「主体性」の観点からよくFYEの論点の一つとされていた。どんなことでも何かを誰かに準備、提供してもらうのが当然であるというのではなく、自らできるようになれるといいよね、というテーマである。そのあまりにもささやかな行動の一つが教室に入ったらすぐに照明、冷暖房を操作することなのであった。「主体性」とは何か大掛かりな行動のことだけを射程に入れているわけでなく、そうした日常の行動も関係しているのだ。教員の中には教室を快適な空間にするのは教員の仕事であるとか主張なさる方もいるだろうけれども、そのことと学生が同じことをするのは両立しないわけではない。教員であれ学生であれ、先に教室に入った方がスイッチを押せばよいだけである。ともあれ、だから「主体性」がないのだという評価することが必要だというわけではなく、まずは、どうして照明や冷暖房をどうにかしようとはしないのかについて知りたいのである。とりあえず、思い付くのは以下の理由である。

  1. 高校で電気機器に触るのは教員だけだというルール、慣行があったので、それをそのまま踏襲している。
  2. 高校で電気機器に触るのはその当番の生徒または何かしらの事情に基づく特定の生徒だけだというルール、慣習があったので、それをそのまま踏襲している。
  3. 高校で電気機器に触ることは「同調圧力」のために難しいことだったので、それをそのまま踏襲している。
  4. 高校で電気機器がまったくなかった(ありえないか)。
  5. 家庭で電気機器に触るのは親や年長のきょうだいだけだというルール、慣行があったので、それをそのまま踏襲している(これも、ありえないか)。
  6. 電気機器に触ることなどは下々の仕事なので、高貴な立場の学生である私がするはずはない(ないない)。
  7. わざわざ電気機器に触らなくても、誰か他の学生がやってくれんじゃね。
  8. 仮に電気機器を触った場合、他の学生(特に、まったく知らないわけではなく顔は見たことはあるけれども、だからといって仲が良いというわけでもない学生)から苦情―寒すぎる、暗すぎる・・・―が寄せられそうで怖い。そんな立場になりたくない。
  9. コート着てるしスマホあるので、別に。何か問題でも。

この他にも理由はいくつかありそうなので、皆さまぜひ教えてください。なお、バ先(=アルバイト先)、大学を卒業して就職した先ではどうなのだろうか。他の従業員よりも先に出勤したら、照明を点けないのかな。仮に給料の貰えるところでは照明を点ける一方、高校や大学ではそうしないというならば、この違いは教育学における「学校文化」という問いになるのかもしれない。なんだか90分1コマの講義中の検討課題になってきた。

教育社会学会公開研究会参加―アクティブラーニングの諸相

http://www.gakkai.ne.jp/jses/2018/10/19111635.php

日本教社会学会第70回大会課題研究Ⅲ「アクティブラーニングの教育社会学」公開研究会(11月6日)に参加してきた。主として高等教育におけるアクティブラーニングがテーマとなっていて、初中等教育におけるそれは検討の対象外となっている。
以前から気になっていたことは、登壇者からも紹介があったようにアクティブラーニング形式の授業は昭和後期や平成に新設された私大でよく導入されていて、それに比べれば国公立大や戦前に創立された大規模私大ではあまり導入されていないということに関連するテーマである。アクティブラーニングは(この言葉は意味が曖昧なので好みではないのだけれども、わかりやすいと評価する方もいるのであえて使うと)「上から」導入が求められているのだけれども、その「上」が導入を特に期待するような伝統ある選抜性の高い大規模私大、とりわけ社会科学系で大教室での「講義」が多いような大学ではあまり導入されていない。補助金によって政策的な誘導が図られているにもかかわらずである。他方で、新興の私大では、その学部編成が看護・保健、教育に偏っているということを差し引いたとしても、アクティブラーニングがよく導入されている。その場合、当然「上から」の誘導に乗ったという場合もあるけれども、同時に、「下から」の対策(もちろん、「下から」という言葉の意味も曖昧だ)であったということも指摘できる。登壇者の複数から紹介があったことだけれども、選抜性の高くない私大では授業を運営するためにどうしてもアクティブラーニング(あるいは、それに類するものであって、すなわち、いわゆる座学のみの講義+教場期末試験による成績評価ではない種類の授業)が必要であるというのだ。「現場」の必要性に関する認識によって、すなわち、「下から」導入される―座学+試験を苦手とする学生への対応―ということがある。インターネット上では選抜性の高い大学に勤務する学者による「上から」指示されるという理由や、その表面的な見た目が麗しいだけで内容が空疎であると評価するという理由としたアクティブラーニングを否定する意見を見ることができるものの、その視野からは見ることのできない「下から」の切羽詰った導入という事例もあることを知っておきたい。ただし、このように書くとアクティブラーニングは選抜性の高い大学では不要であると評価される可能性もあるが、それは誤解である。ここからは不要かどうかの判断をすることはできない。
さて、教育社会学の理論の中には、アクティブラーニングとして想定されるような授業における到達度は、出身家庭の背景を受けやすいというものがある。これは幼稚園、小・中学校の事例でよく言われることであるのだけれども大学ではどうだろうか。学習の時間や空間の縛りが緩く、何が適切なアウトプットであるかについての評価基準が曖昧であったりすると、家庭の資源に恵まれない学習者にとっては戸惑いが大きく、十分な到達をすることができないというものである。他方、家庭の資源に恵まれた学習者にとって、それは自ら創意工夫を繰り出す余地の大きい、やり甲斐のあるおもしろい学習であって、その到達度も高くなることが見込まれる。この理論が仮に正しいとすると奇妙なことになる。どうして、資源に恵まれない学習者が相対的には多い可能性のある大学においてこそアクティブラーニングが導入されているのだろうか。「下から」の導入というのは、いったいどのような意味なのだろうか。このように考えていたところ、登壇者の一人がフレーミング(枠付け、F)に着目したほうがよいのかもしれないという結論を述べられて、納得したのである。同じアクティブラーニングという言葉でまとめられる授業であっても、確かにフレーミング(枠付け、F)が内的(i)にも外的(e)にも強ければ学習者が戸惑う要因が少なくなるし、弱ければ多くなる。そこで、仮説段階でしかないわけだけれども、少なくとも「下から」の導入であったアクティブラーニングについてはフレーミング(枠付け、F)が強いということになるだろうか。そうだとすると、アクティブラーニングという名前が付けられている授業のイメージは少し変わるかもしれない。他者とのコミュニケーションが苦手、不得意である学習者にとってアクティブラーニングは不利益をもたらすという通説があるけれども、それはおそらくフレーミング(枠付け、F)が弱い場合である。フレーミング(枠付け、F)が強い場合はどうなるだろうか。なお、筆者の「現場」の感覚としては、苦手なこと、不得意なことでも工夫をしつつも行わなければならない学習はあるし(それは座学、筆記試験でも同じことである)、卒業後の人生を見据えてそうしたことがらの練習をすることも大事である。
ところで、2012年のいわゆる質的転換答申の力点はアクティブラーニングなどではなく学習時間であるという、登壇者複数の主張には全面的に賛成している。つまり、アクティブラーニングを導入しようということではなく、学習時間が少なすぎるのでどうにかしよう、という趣旨である。しかし、アクティブラーニングと違って学習時間については知識の蓄積が必要となる医学系、理工系、または、資格取得系以外の分野では「下から」導入する動機が生じないためにあまり改善されない。
また、筆者としてはアクティブラーニングが空疎であるという否定論について考えてみたかった。実のところ、アクティブラーニングが空疎というわけではなく、パフォーマンス・モデルの第三のモードである一般的スキル・モードに結びつくことで空疎になるように思えるのである。パフォーマンス・モデルであるにもかかわらず伝達される知識に実体がなく、むしろ、コンペタンス・モデルであるように見えてしまう。卑近な例で言えば「グループワークを通じて社会人基礎力を身に付ける」という課題である。

あの一般的スキル・モードが、「労働」・「生活」経験についての〈教育〉的基礎として、どのように構築され定着するかという問題に立ち戻ってみたい。この一般的スキル・モードは、単に獲得の〈教育〉手順が経済的な(経済に基盤をおいている)ばかりでなく、「労働」・「生活」の新しい考え、つまり「短期変動主義」とでも呼べるような考えに基づいている。これは、スキル・課題・労働分野の発展・消滅・再編(の変動過程)を持続的に受け止めて行こうというものである。つまり(変動短期社会の)生活経験は、未来とそこでの個人の位置についての安定した予測に基盤を置くことはできない。こうした環境の下では、活力ある新たな能力が発達されなければならない。それが「訓練可能性」であり、それは〈教育〉が次々に改革されてもそこから成果を得ることができる能力、「労働」・「生活」の新たな要請にうまく対処する能力を意味することになる。こうした〈教育〉の改革は、特定のパフォーマンスよりも柔軟で移行可能な潜在能力を実現することが期待される一般的スキル・モードの獲得を基盤とするだろう。だから、一般的スキル・モードは、その深層構造を「訓練可能性」という概念の中に持っている。
バジル・バーンスティン『〈教育〉の社会学理論:象徴統制、〈教育〉の言説、アイデンティティ』訳書、124-125頁

このモデルではない場合のアクティブラーニングについて、どれくらい空疎否定論が妥当といえるようになるだろうか。

「"就活で学業がおろそかになる"はデタラメ」と言い切れるか

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「"就活で学業がおろそかになる"はデタラメ」という記事を読んだ。日本経団連が2021年春入社予定となる学生の就職活動について「採用選考に関する指針」を策定しない、すなわち、採用活動開始時期の自由化を認めることを発表したことを受けて、大学関係者の一部が動揺していることに対して、その動揺が的外れであることを指摘する文章である。
記事は、

  1. たくさんの大学生と企業、人事担当者と話しをした経験からすると、「就活のせいで、学業がおろそかになる」という主張は根拠のないデタラメである。学業をおろそかにしているのであれば、それは就活ではない、別の理由によるものだ。
  2. 大学の「現場」の実感としては、就活と学業は二項対立的な関係ではない。相互補完的な関係である。
  3. これからの採用活動は、夏休みや春休みなどの大学のまとまった休みに行い、合わせて、インターンシップを効果的に用いるべきだ。

というものである。印象としては納得できそうな部分はあるとはいえ、主張の前提となっている「おろそかデタラメ」論については、もう少し慎重になったほうがよい。

リクルートキャリア「就職みらい研究所REPORT 2019年卒学生就職活動状況中間まとめ」2018.8.31(PDF)
https://data.recruitcareer.co.jp/wp-content/uploads/2018/09/chukan_2019s_201808.pdf

この調査のうち、学業・就職活動・プライベートそれぞれの時間の割合を尋ねた項目の結果によると、3年生2月から4年生9月にかけて(2019年卒は4年生6月にかけて)、「就職活動」の割合が高い時期は「学業」の割合が下がる。少なくともいわゆる「解禁日」から7月くらいまでは、学業の時間を減らして就職活動を行っていることがわかる。とはいえ、こんなことはデータを持ち出さずとも大学関係者ならよく知っている、あたりまえのことである。この時期の大学教員のSNSでは「また4年生がゼミに出てこない」という話題が繰り返されているようにである。

株式会社ディスコ・キャリタスリサーチ「 7 月 1 日時点の就職活動調査 キャリタス就活 2019 学生モニター調査結果」2018 年 7 月発行(PDF)
https://www.disc.co.jp/wp/wp-content/uploads/2018/07/19monitor_201807-1.pdf

この調査では、就職活動におけるいわゆる「活動量」を尋ねている。まず、セミナーについては企業単独セミナー約14回、合同企業セミナー約11回、学内セミナー約8回、WEBセミナー約7回の参加である。1回の滞在時間+移動時間をそれぞれ、5時間+1時間、3時間+1時間、3時間+0.5時間、1時間+0時間としてみよう。セミナー参加時間は、6時間×14回+4時間×11回+3.5時間×8回+1時間×7で163時間である。次に、志望動機の提出や試験についてエントリーシート提出約14回なので、1時間×14回=14時間、筆記・WEB試験受験 (社)約 10回なので、1.5時間×10回=15時間である。最後に、面接については、グループディスカッション約3.5回、面接試験約8回であった。1回の滞在時間+移動時間をそれぞれ、1時間+1時間、1時間+1時間とすると、それらにかかる時間は2時間×3.5回=7時間、2時間×8回=16時間である。以上の時間の合計は、163時間+15時間+16時間=194時間である。そして、この調査は7月1日時点までの活動を尋ねているので、3月1日から4ヶ月間活動をしていたとすると、194÷4ヶ月間=48.5時間、1ヶ月につき20日間活動していたとすると、1日あたり約2.5時間となる。しかし、この調査には企業や業界についてインターネットで調べる時間、サークル・ゼミ/研究室、キャリアセンターの伝手でOBOGに会う時間、公務員など筆記試験の対策が重要になる場合のその学習時間などが含まれていないうえに、移動時間が1時間では済まない場合もあるだろう。実際には、1日2.5時間で済むわけではない。最近数年の就職活動経験者の実感はどうだろうか。
このようにデータを見ていると、現状の毎年のいわゆる解禁日以降の新4年生に対する"就活で学業がおろそかに"なっている、という見方を全否定することは難しいように思われる。そこから、採用活動開始時期の自由化が採用プロセスの長期化、それによって学業の時間が奪われるという見込みを持つことは、それほど不思議なことでもないだろう。したたかな企業であれば、たとえば、1年生冬のインターンシップで一次選考を行ったうえで、そこで選考した学生を採用候補者のプールとして位置付けて、すぐには内定(内々定?)を出すほどには至らない候補者であってもそのプールが就職することになる年度の採用予定数を満たすまで「宙ぶらりん」のまま接触―候補者同士のグループディスカッション、先輩従業員・経営トップとの談話、事業所見学、研修、アルバイトなど―を続けたうえで、その予定数を確保できれば4年生12月になってようやく不採用通知を行うということも可能である。しかも、学生からすると選考されないリスクを抑えるために、同様の接触を複数社と行わなければならない。こうしたことはもちろん現行のルールでもある程度可能なわけではあるけれども、自由化はその「宙ぶらりん」の状況が3、4ヶ月ではなく、2年、3年と続くことを導くことになりかねない。言わば、採用プロセスの長期不透明化である。
すなわち、冒頭で挙げた1番のことがらについて、現状の就職活動のデータは必ずしも楽観的な見通しを裏付けることにはなっているわけではなく、かつ、記事は上記に挙げたような長期化に対する不安を解消するような立論にはなっていないために、2番、3番に対して納得することが難しいように見えるのである。学習しない学生は就職活動の有無にかかわらず学習しないという主張は印象としては理解できるものの、そのことが仮に妥当だとしても就職活動が学生の学業時間を削るデータを否定できるわけでもない。また、就職活動によって学業の意義が理解できることがあるというのもわかるけれども、学業の意義はそれ以外の経験を通じて理解することもある。就職活動だけが学生生活の中で特権的な位置を占めるわけでもない。


最後に、第一にこれは言葉尻をとらえるようなことなのかもしれないけれども、キャリア教育関係者はとにかくよく「変化の激しい社会」という言葉を使う。この記事にもよく似た言い回しが複数使われている。しかし、記事の筆者は研究者であり、特に社会学者であるわけなので、それが何を意味するのかもう少し詳しい説明がほしい。卑近なビジネス・シーンの事例でも、もう20年ほど電子メール、マイクロソフト・オフィスの利用は変わっていない(先進的な企業ではそれらを廃止しているようだけれども)。そんなつまらないことではなく、前近代、近代との比較のうえでそうした言葉が選ばれているのだとしたら、その意図は何であろうか。
第二に、インターンシップが学生を成長させると主張しているのだけれども、高等教育論、大学教育論の分野における大学生を対象にした質問紙調査では、インターンシップの経験は能力獲得項目に対して有意な差を示さないことが一般的である(質問紙には表れない経験をしていることは間違いなく、それは重要なことであるとはいえ)。そうした先行調査・研究をどのように理解すればよいだろうか。

デザイン・思想・国家


盟友である一橋大学の太田美幸先生から『スウェーデン・デザインと福祉国家: 住まいと人づくりの文化史』新評論、2018をお送り頂きました。ありがとうございます。

現代社会に暮らす私たちにとっては、教育といえば学校において子どもを対象に行われるものというイメージが強いが、必ずしもそればかりが教育であるわけではない。
たとえば教育学者のジョン・デューイ(John Dewey,1859~1952)は、「われわれは決して直接に教育するのではない」として、「環境による間接的な教育」を重視した。人間は、環境から無意識のうちに強い影響受けているが、その影響力は極めて精妙で浸透力が強いため、環境を統御することによってそうした影響をコントロールすることが重要だというのである。彼のこうした考え方にもとづけば、人々の生活の基盤となる住まいもまた、「環境による間接的な教育」がおこなわれる場とみなすことができる。
他方、人間が社会において役割を果たすためは、疲れたときに住まいに戻って緊張を解き、安らぎを得ることが必要だが、これは人間の自己形成の過程でもある。人間の生を支える重要な機能を住まいが有しているとすれば、住環境を整えると言う行為は、「望ましい人間形成」のための一つの方法とみなすことができるだろう。
ところで、どのような人間形成を望ましいとするのかは、時代や社会によって異なっている。それゆえ、社会が大きく変動する転換期には、その理念や方法がさまざまに模索されてきた。工業化の進展によって日常物質文化が著しく変容した一九世紀後半から二〇世紀前半は、まさしくそのような時期だった。
新たな生活への対応が迫られたこの時期に、日用品をデザインすることへの関心も高まったわけだが、それは人々の暮らしを豊かにするためでもあり、それを通じて人間をつくりかえ、さらに社会をつくりかえようとするものでもあった。近代デザインは、「人々の生活や環境をどのように変革し、どのような社会を実現するのかという問題意識を持ったプロジェクト」として現れたのである。
このように考えると、近代デザインは、それ自体が人づくりの新たな形態でもあったといえる。以下、本書ではスウェーデン・デザインの歴史をこうした観点から記述し、そこにいかなる人間形成の思想が込められていたのか、それが福祉国家建設をめぐる議論にどのように組み込まれ、人々の暮らしをどのように変えていったのかを探っていきたいと思う。
10-12頁


太田先生のご専門であるスウェーデンの民衆教育論と密接に関連している近代化の諸問題と社会政策とを、デザインという切り口からアプローチした論考であると理解しました。民衆教育については大学院生の頃から先生のご発表で勉強させて頂いていたのですが、その当時から先生が家具やインテリアなどのデザインにご関心があることを伺っていて、今回の新刊によってそれらの問題意識が結び付いて得心しました。
ところで、第6章の住宅政策の説明部分で、持ち家運動、持ち家イデオロギーへの言及があります。私が家族社会学ジェンダーについて学んでいた学部生の頃、特に関心を持ったテーマの一つが国民(市民)の持ち家についての感情―それは、教育や政治に深く関係している―でしたので、とても興味深かったです。近代化の中で都市における劣悪な住宅環境(と労働)への対策として、日本とスウェーデンとでどのようなことが同じでどのようなことが違っていたのか(本書を読む限り、同じように見えるところもあります)考えてみたいと思います。

いただきもの―教育社会学入門書と教育学入門書

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大妻女子大学の牧野智和先生から、吉田武男(監修)、飯田浩之・岡本智周(編著)『教育社会学:MINERVAはじめて学ぶ教職』ミネルヴァ書房、2018をお送り頂きました。ありがとうございます。
牧野先生ご執筆の第10章「学校という空間と社会」において、教育社会学の観点から初等中等・高等教育のそれぞれにおいて、それら学校段階毎の特質をふまえつつもあたかも一貫して展開されているようにみえる「アクティブラーニングをどのように考えるか」という論点が提起されています。

アクティブラーニングにおいては、新しい教育方法の導入に見合ったさまざまな評価の選択肢が示されている。例えば形成的評価、パフォーマンス評価、ルーブリックの導入などである。これらが十全に機能した時にもたらされる教育効果はもちろんあるにしても、さらなる評価の多様化と、依然持続すると考えられる説明責任要求を合わせ考えると、金子が明らかにした諸点が持ち越される、あるいはより深刻になる可能性は小さくないだろう。アクティブラーニングは学校がコンサマトリー化した状況において、教師と生徒双方に「何かをやった」という充実感をもたらすかもしれないが、そのような充実感の一方で学校生活全体にわたる評価の細密化はおそらく加速する。生徒たちは教師の評価に対してさまざまな適応戦略をとるものだが(金子、1999)、微細な評価ポイントに気づいた生徒のみが教師にとって好ましい態度をもって、より有利な立場を得ようとする展開もまた加速する可能性が高いだろう。
(略)
アクティブラーニングの実施に際しては、ただ何か作業をやらせればよいわけではないという教育実践上の戒めがしばしばなされるが、それにとどまらず、誰がより有利な状況にあるのか、生徒の「権力」上の不平等はないか、という教育社会学的な態度も、公正な評価のために必要なのではないだろうか。
129頁

このアクティブラーニングに対する注意深い姿勢は、初学者向けのテキストとしては良いものだと思いました。ただ、研究の観点からはやや不満を持ってしまうかもしれません。ここで提起されている問題は、教育社会学がこれまで課題としてきた評価そのもののあり方と、それに関連する知識伝達の過程における学習者のバックグラウンドに由来する有利・不利というテーマであって、アクティブラーニングに内在した固有の論点というわけではないからです。むしろ、たとえば、B・バーンスティンが「再文脈化された知識」の伝達に関して指摘するような「コンペタンス・モデル」と「パフォーマンス・モデル」の違いからアプローチしたほうが、もう少し見通しが良くなるような印象を持ちました。「何かをやった」という充実感は否定的に説明されることが多いわけですが、その「何かをやった」をもたらす実践がそもそも問題視していた従前の知識伝達のあり方(そして、しかしながら実はそれこそが不利な層にとって良いこともあるという捩れ)にも言及しつつ、それらのモデルの特徴に迫ると私にとってはわかりやすかったです。



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そして、同日に、山梨学院大学の児島功和先生から、植上一希・寺崎里水(編)『わかる・役立つ教育学入門』大月書店、2018をお送り頂きました。ありがとうございます。
児島先生ご執筆の第4章「貧困世帯の子どもと学校」では、将来、幼稚園~高校の教師になるであろう大学生に対して、子ども貧困に気づくことができるかどうかという問いを投げかけています。

最後に、みなさんが教師になったときのために、気をつけてほしいことがあります。それは貧困の「見えづらさ」です。
(略)
Jさんは、自分の家庭が貧しいことをまわりに知られると「恥ずかしい」と感じていて、「普通を装おう」といいます。「普通を装おう」ことの背景には、自分たち(家族)は普通ではないという感覚があります。もし貧困世帯の子どもが学校で「普通を装おう」ことをしていたらどうでしょう。教師になったみなさんは、そのことに気づくことができるでしょうか。
また宿題をやってこない子、授業に真剣に取り組まない子、学校生活を送るうえで前提とされる生活習慣を身につけていない子がいたら、「だらしない子」「だめな子」とラベルを貼りたくなるかもしれません。しかし、これこそ、貧困世帯の子どもの特徴といえるものです。「だらしない子」「だめな子」というラベルを貼ることでその子どもと家庭が発信しているSOSのサインを見逃してしまうかもしれません。何か問題を感じたときに教師に求められるのは、「もしかしてこの子の家庭は様々な困難を抱えているのではないだろうか」と、子どもの言動の奥に複雑で多様な背景を想像できることではないでしょうか
47-48頁

私の大学院の指導教員がよく言っていたことの一つがまさにこのテーマでした。たとえば、1970年代くらいまでは、身なりや所持品から児童・生徒の貧困はわかりやすかったのだけれども、80年代くらいから「豊かさ」の恩恵が各層に対してそれなりに広がるにつれて、上記引用の「普通を装おう」や、消費社会の浸透・馴致といった理由で表面的には貧困がわかりにくくなって、教師による支援―それは学習だけのことではありません、児童・生徒の生活や保護者の就労や扶助に関わる広範なもの―が少し難しくなったというものです。この本も初学者に対してとてもよい入門書であるように思いました。

さて、この2冊を拝見して驚いたのは、高等教育・大学に関する章が設けられていることです。高等教育論・大学教育論の位置付けが変わってきたのかもしれません。これまで、教育学、教育社会学の書籍、特に入門書でそれらが触れられることはほとんどなかったのではないでしょうか。試しに、すぐ手の届く範囲にあった以下の入門書で高等教育・大学に関する章があるかどうかを確認してみました。さて、この中にそれらの章はいくつあるでしょうか?



柴野昌山『教育社会学を学ぶ人のために』世界思想社、1985 →第12章執筆者は竹内洋なのでそこだけやや異質
 序章 教育社会学の基本的性格、第1章 教育社会学の歴史的展開、第2章 教育社会学の研究方法、第3章 家族の役割体系と社会統制、第4章 社会変動と子供(ママ)観の変遷、第5章 子どもの社会化と準拠者、第6章 学校組織の社会的機能、第7章 学校文化と生徒文化、第8章 教室における相互作用、第9章 教師の職業的社会化、第10章 マス・メディアと青少年、第11章 ラベリングと逸脱、第12章 企業と学歴


中内敏夫『教育学第一歩』岩波書店、1988 →私たちの仲間内でいう「緑と黄色の本」
 第Ⅰ部 教育原論
  第一章 なにを教育とよぶのか、第二章 教育の計画化、第三章 教育過程、第四章 教育集団論
 第Ⅱ部 教育学説史
  第一章 教育論以前、第二章 十七世紀ヨーロッパの教授学とジェスイットおよびヤンセン派、第三章 近代社会における教育学の誕生と変転、第四章 日本の教育論


久冨善之・長谷川裕『教育社会学:教師教育テキストシリーズ5』学文社、2008 →いわゆる教職向けテキスト
 序章 教職と教育社会学、第1章 学校という制度と時間・空間、第2章 学校で「教える」とは、どのようなことか、第3章 教師と生徒との関係とは、どのようなものか、第4章 学校教師とはどのような存在か、第5章 若者は今をどのように生きているか、第6章 <移行>の教育社会学、第7章 子育て・教育をめぐる社会空間・エージェントの歴史的変容と今日・未来、第8章 学校の階級・階層性と格差社会、第9章 国民国家ナショナリズムと教育・学校、第10章 教育改革時代の学校と教師の社会学


矢野智司・今井康雄・秋田喜代美・佐藤学広田照幸『変貌する教育学』世織書房、2009 →入門書ではないか
 「教育学の変貌」に関する覚え書、限界への教育学に向けて、教師教育から教師の学習過程研究への転回、去る教師・遺す教師、変貌する国際環境と日本の高等教育、心理主義批判の核としてフロイトを読むために、生活改革のひび割れた構成物としての新教育、儀礼の再発見、『民主主義と資本主義』をふりかえる、教育の公共性と自律性の再構築へ


広田照幸『ヒューマニティーズ教育学』岩波書店、2009 →入門書にしては難しい
 一、教育論から教育学へ、二、実践的教育学と教育科学、三、教育の成功と失敗、四、この世界に対して教育がなしうること、五、教育学を考えるために


木村元・小玉重夫・船橋一男『教育学をつかむ』有斐閣、2009 →「教職教育学」と「アカデミックな教育学」を結びつけて「つかむ」とのこと
 序 教育学とは何か、第1章 教育と子ども、第2章 教育と社会、第3章 教育の目的、第4章 ペダゴジーのグランドデザイン、第5章 ペダゴジーの遂行(1)、第6章 ペダゴジーの遂行(2)、第7章 ペダゴジーの担い手、第8章 教育の制度、第9章 教育の接続、第10章 共生の教育


田中智志・高橋勝・森田伸子・松浦良充『教育学の基礎』一藝社、2011 →これも簡単ではない
 第1章 学校という空間、第2章 知識の教育、第3章 教育システム、第4章 戦略的教育政策・改革と比較教育というアプローチ


石戸教嗣『新版教育社会学を学ぶ人のために』世界思想社、2013→ベテランと若手のバランス!
 序章 教育社会学とは、第一章 教育社会学の展開と課題、第二章 欧米における教育社会学の展開、第三章 社会移動と格差社会―後期近代の社会イメージ、第四章 ガバナンスと教育計画―地域の再編と教育行政、第五章 教育現実の言説的構築、第六章 カリキュラムと学力問題、第七章 教師という職業―教職の困難さと可能性、第八章 ジェンダーセクシュアリティと教育、第九章 子ども・若者の世界とメディア、第一〇章 ネットワーク社会と教育、付章 教育社会学の半世紀



答えは1箇所です。矢野ほか2009の中の「変貌する国際環境と日本の高等教育」です。そして、章タイトルには入っていないのですが、木村ほか2009の中の第9章で高等教育についての言及があります。それも含めれば2箇所ということになります。そうした状況と比較すると、最近の入門書で高等教育・大学について説明が行われること自体がとても興味深いです。