初期キャリアの「生きづらさ」

nyaaat.hatenablog.com
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お盆休み、ニャートさんの記事を読み返していて、修士2年の頃を思い出してつらくなってしまった。新卒で入社した企業を辞めて大学院に進学したものの、研究の難しさに挫折して再就職先を探していた。その時期は依然として就職氷河期であって、第二新卒市場もそれほど育っていなかった。複数の人材紹介企業に登録していたけれども、持ち込まれる案件のほとんどがそれまでの経験を生かせるものではなかった。稀に「コンサルティング」という職種の案件が持ち込まれることがあったけれども、その実際は当時流行っていたあるニッチな分野における営業代行業であった。営業がしたくないというわけではなく、どうせなら代行ではなく自社の営業をしたいと思っていた。
そのとき考えていたことが、まさに「そうしてどんどん条件が悪くなり、非正規スパイラルを下りながら回っていく。レールにはもう乗れない。かといって、自分のレールを作ることも難しい」であった。当時、大学院にはキャリアについて「相談できる人や居場所」などはなく、「モデルケースも受け皿もない」そのものだった。そんな状況で修士論文を書き進めるのは非常に苦しかった。指導教員やゼミテンなど周囲に心配をかけるのは嫌だったので、再就職活動は何ら問題はないと言い張っていたのだが、実際には問題だらけであった。院生をしながら行っていた補習塾とお受験塾のアルバイトを継続するか、はたまた、少し手伝いをしていたNPOで薄給の仕事を行うかと覚悟を決めようとしていたところ、その年の11月、修士論文提出2ヶ月前にようやく再就職先が見つかった。極めて幸運に恵まれたようで、人材紹介企業を使わずに「ダメモト」で応募していた待遇が良く経歴を生かせる企業とご縁ができることになった。その企業についても結局は辞めることになって、再び大学院に戻ってしまうことになるのだけれども、それはそもそも何らかの「生きづらさ」に関係していたかもしれない。かくして、学部、大学院修士、大学院博士後期と3回にわたって同一の機関に対して入学金を納入することになる。
ニャートさんの記事において「生きづらさ」というタグが使われている。この言葉は偶然なのだろうけれども、大学院の指導教員が一時期よく使っていたものである。ただし、それは中学生、高校生の学校生活における困難を指しているものであった。他方、20代、30代、あるいは、それ以上の年代における「レールを外れる」ことなどと関連した「生きづらさ」について、私の研究分野の世界ではまだあまり理解することができていないのかもしれない。もちろん、「レール」などそもそも存在しない道のりを歩んでいる若者も大勢いる。高卒者のキャリアの困難を明らかにした研究はある程度の蓄積はあるものの、大卒者、大学中退者のそれはまだまだ不十分である。中学生、高校生のそれとは異なるであろう種類の「生きづらさ」とはいったいなんだったか。新卒で入った企業で希望していた編集職に就いてから数年後、心を病んだ同期のことなども思い出す。

『文系大学教育は仕事の役に立つのか』

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8月に『文系大学教育は仕事の役に立つのか:職業的レリバンスの検討』が刊行されます。
(出版社さんから掲載許可を頂いた書影です)
https://honto.jp/netstore/pd-book_29179035.html
(honto:本の通販ストア)

問題関心

長期的な価値創造や人類的な普遍性に文系の大学教育が「役立つ」ということは、もちろん重要である。しかし、文系の大学教育の意義を、そうした側面だけに限定して考えてしまうことは、実はむしろ他の重要な意義の看過につながってしまうかもしれず、また逼迫した国家財政のもとで大学教育という知的社会基盤を維持してゆくのに十分な説得力をもちうるかどうかも心許ない。それに代えて本書がデータに基づいて正面から吟味しようとするのは、次のような一連の問いである。すなわち、文系の大学教育でも、実は十分に仕事にも「役立っている」のではないか。または、文系内部でも学問分野や卒業後の仕事のありようによって「役立ち方」やその度合いは異なっているのではないか。もし「役立っている」のであれば、それにもかかわらず「役立っていない」と思われているのではなぜか。これらの素朴ともいえる疑問に対して答えを探す試みを、調査データの分析を通じて示すことが、本書の目的である。
本書が調査にこだわることには、さらなる背景がある。それは、「役に立たない」とされる文系の大学教育に、無理に枠をはめて「役に立つ」ようにさせようとする動きが、調査の裏づけなく進んでいるからである」
3頁

 このブログで何度か紹介してきたように、20世紀まで教育諸学の分野(一部を除く)では、教育の職業的意義を対象として研究することは学問の政治的価値の観点から避けられるべきことであるとされていて、かつ、小中高生に比べて数の少なかった大学生を対象とした研究もあまり行われていなかった。それに関連して、2009年刊行の本田由紀『教育の職業的意義:若者、学校、社会をつなぐ』(筑摩書房)において、「教育に職業的意義は不必要だ」、「職業的意義のある教育は不可能だ」、「職業的意義のある教育は不自然だ」、「職業的意義のある教育は危険だ」、「職業的意義のある教育は無効だ」という否定的見解が紹介されて、それぞれの否定に対する反論が試みられている(8-22頁)。現時点においても、こうした否定的見解に加えて、「職業的意義なんて、就業前にわかることではないから無意味だ」、「大学の存在意義を職業的意義に求めるなんて反動だ」といった趣旨の否定を見かけることがある。確かに、一部の学問分野は職業的意義から遠く離れているということによって、その存在意義を示そうとするのかもしれない。職業的であることに関してのみならず、いかなることに関してもまったく「役に立つ」知識ではないからこそ、世間から隔絶された大学で扱われるべきものである、そしてそれゆえに永く後世に残すべきものとして価値が高いという主張である。さらには、インターネットスラングの一つである「嫌儲」のように、一般的に営利行為を嫌う心情から―ブルデューの言う「文化と階級」の論点につながるだろうか―職業との接点を嫌うということもあるだろう。
 それらの否定的主張に対する理論的、歴史的な観点からの応答については、上記の筑摩書房の新書に示されている。他方、今回刊行された書籍においては、21世紀に入ってから少しずつ積み重ねられている大学教育と職業的スキルとの関係についての各種実証的研究をふまえたうえで、とりわけ文系の知識は仕事に「役に立つ」ことはない(だからこそ、国立大学の文系は縮小しよう)という風説に対して調査の結果をもとに反論することに注力している。もちろん、こうした研究に対して「相手(=文系縮小論者)の土俵(=仕事へ役に立つかどうかを評価基準とする)に乗るべからず、そうではないオルタナティブな価値を示せ」という反論も寄せられることになるかもしれない。しかし、同書のなかで繰り返し主張されているようにそれを行うだけの時間的猶予はあまり残されているわけではなく、また、オルタナティブな価値に対して理解を得る見込みも少ないであろうから、政財界プラス高等教育政策担当省庁の「相手」への反論材料として、こうしたデータに基づく研究が必要であると思われる(オルタナティブな価値はそうしたことの提案、説得が得意な研究者によって示されるとよい)。観念的な「べき論」ではなくデータを用いた反論があれば、ぜひ検討してみたい。
 私が担当した7章では、大学を卒業して就職1年目、2年目に相当する20名を対象とした聞き取り調査の結果を分析している。聞き取りは2015年8月から2016年6月にかけて実施したものである。聞き取り時点で従事している仕事と、学生時代の学習経験との関係をお尋ねしている。もちろん、すべての学習が必ずしも「役に立つ」と認識されているわけではなく、また、「役に立つ」かどうかにかかわらず授業改善が必要と思われるような指摘もあった。とはいえ、教員にとっては思いつかないような、新たな発見となるような「役に立つ」ことがらも示されている。かつて、私は大学院の指導教員から学校文化は「教員文化」「生徒文化」など複数の文化から構成されているのだけれども、各文化の間には衝立が設けられているので他所を除くのは難しいと教わったことを思い出すのである。
 20名の対象者の方につきましては、聞き取り調査に応じてくださいまして感謝いたします。こうしたかたちでお話しいただいた内容を成果にすることができました。



ご参考
科学研究費 基盤研究(B)「人文社会科学系大学教育の内容・方法とその職業的レリバンスに関するパネル調査研究」
科学研究費 基盤研究(A)「大学教育の分野別内容・方法とその職業的アウトカムに関する実証研究」

新書(だけ)で読む能力主義[後編]

 研究室の書架にある新書縛り能力主義論、後編である[後編]。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

「選抜」についてですが、このテーマに関して最初に理解しておくべきは、先述したように、学力の測定・評価には必ず“あいまいさ”と“恣意性”がつきものだということです(広田2011参照)。つまり、「能力」は本来、正確に測ることなどできない上に、何をもって能力があるとするかは、かなり恣意的だということです。
(略)
選抜(およびそれに伴う序列化)は、必ずしもその人の「能力」を十分に反映したものではないということを、まずはしっかりと理解しておく必要があります。というより、本来能力とは多様なものであるにもかかわらず、これを一元的な評価軸において序列化してしまうのは、産業主義の時代であればまだしも、ポスト産業社会の現代においてはきわめて無理のある話なのです。
とはいえ、選抜というものは、少子化に伴って少しずつ減少してはいるものの、どうしてもある程度は存在し続けるものです。
143-144頁

「能力」は本来多元的なものであるものの、産業化に対応して一元的であると把握されてきたこと、そして、その過程において、一部の「能力」だけが恣意的に切り取られて高く評価されてきたことについて批判的な考察が示されている。ただし、著者は従来の教育関係者とは異なって、財界、企業が求める「能力」を全否定しているわけではない。現代の企業においては「訓練されやすい」という力量(?)よりも「学び続ける力」が必要であり、それは確かに階級・階層による格差を反映しやすいという重大な問題があるとはいえ、公教育で育てる力量の一つとして矛盾するものではない、という認識を示している。


暴走する能力主義 (ちくま新書)

暴走する能力主義 (ちくま新書)

本書の基本的スタンスは、

いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければらない」という議論それ自体である。

というものである。ではそうした見方が妥当だとすると、なぜこのような渇望が生み出されるのだろうか。その答えを導き出すために私が用意しているロジックは次の5つの命題からなる。
命題1 いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない
命題2 地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される
命題3 メリトクラシーは反省的に常に問い直され、批判される性質をはじめから持っている(メリトクラシー再帰性
命題4 後期近代ではメリトクラシー再帰性はこれまで以上に高まる
命題5 現代社会における「新しい能力」をめぐる議論は、メリトクラシー再帰性の高まりを示す現象である
47-48頁

著者は社会学における後期近代論を参照しつつ、一部には葛藤理論も視野に入れながら、現代の日本や、日本だけではない「新しい能力」論の流行について考察している。ギデンズ、ベックを読んだことがあればお馴染みの議論である(私の講義を履修した学生は、よく聞かされましたよね(笑。「ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、それよりも昔のご先祖様の時代からそうだったのだから、そうなんだよ」ではもはや納得できない時代だ)。これほどまで社会学理論を援用して「新しい能力」そのものというよりは、それが流行する文脈について迫った類書はないだろう。
私が知りたかったことの一つは、かつての教育関係者の関心との接続についてである。財界、企業由来の能力主義への否定という論点については、後期近代論という大きな枠組みを採用することによってとりあえず射程内に入っていると言えそうである。一元的能力主義観に捕捉されてしまうことのない「『真の学力(ほんとうの知識・教養)』というものがあるはずだ、公教育はそれを価値とするべきだ」といった主張についても、再帰的近代のテーマに合いそうである。他方、伝統的な従来の能力平等・差別忌避論に対して、何を言ったことになるのか評価が難しい。能力平等・差別忌避論は著者によって反論の対象の一つにされている(葛藤理論的)メリトクラシー幻想論と似ているようで異なる主張である。「能力の社会的構成」は社会学者によってはわかりやすい概念であるものの、教育関係者はどのように受けとめるだろうか。
また、かつての教育関係者による一元的能力主義批判に対しては、本書が検討の対象にしてきたような「新しい能力」の出現によって、あるいは、それに関連する「脱・競争(の教育)」とでも言うべき競争的秩序の部分的溶解によって、幸せな社会が到来したと言えるのかという問いを思いつく。コミュ力(コミュニケーション能力)の重視は、決して偏差値序列の秩序を救ったことにはならない、新たなディストピアの出現であるようにも見えるのである。

新書(だけ)で読む能力主義[前編]

 学者は「能力主義」についてどのようなことを語ってきたのか、研究室の書架にある新書縛りで確認してみよう。[前編]

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

この教育白書発表の翌六三年、高度経済成長下の教育政策の基調となった、経済審議会の答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」が出された。
そこでは、経済発展は国民生活向上のためにすすめられるのであり、それを担う人的能力の開発が政策の目的であるとされる。そして、「労働力としての人的能力といっても、その基調には生活向上への希求と人間尊重の精神が貫かれていなければならないし、また、われわれの考え方にはそれが貫かれているのである」という。
この言葉の限りでは異論のある人はいないだろう。たしかに以後、国民の物的生活は向上していく。しかしどのようにすすめられてかが問題である。答申には、「端的にいえば、教育においても、社会においても、能力主義を徹底するということである」、とまことに端的に記されていた。さらに具体的には「ハイタレント・マンパワー」の養成と尊重の必要を説き、一方、それぞれが自らの「能力・適性」に応じた教育を受け、それによって得た職業能力を評価・活用されるのがよいという教育観・職業意識に徹することを求めていた。
222-223頁

こうした政府の主張や、それに基づく政策に対して、教育学者、教育現場の一部は否定的であった。教育は経済の従属物ではない、ハイタレントではない一般の青年はどうなるのか、「能力・適性」に応じる教育は差別的である、などとして反対したのである。さて、その答申から約十数年、財界も喜ぶであろう職業高校を増設しよう、多様な「能力」は細かい分野毎に分かれた職業高校で養成されるはずだ、いや、しかしながら、企業は景気が良いので「能力」に固執することなく大勢の青年を採用したいし、そもそも企業内教育訓練があるから高校での職業教育はあまり要らなかった、採用選考の基準は特定の「狭い」「能力」というよりは高校の入試難易度や実績関係だ、それこそが「訓練可能性」の代替指標なのだ、職業高校は学習があまり得意ではない生徒の進学先なのだ、という主張―「一元的能力主義」観に基づく主張―が行われるようになる。生徒、親の多くが普通高校を望み、教育学者の一部も同様に一見すると財界の従属物ではないようなそれを期待する。とりいそぎ、まず、ここで確認したいことは、教育の分野で「能力主義」(単なる「能力」ではなく)が取り上げられたのは、政府・財界が主張する経済成長に付随する文脈であった。

現代社会と教育 (岩波新書)

現代社会と教育 (岩波新書)

産業の教育支配の潮流と呼応して想起された能力主義は、具体的には、社会と教育の場に競争の原理を貫徹させる主張であった。
(略)
ここから引き出される学校教育がどんな姿になるのか予想はつこう。繰り返されるテスト、一点を争う競争、能力別学級編成、そしてできる子には豊かな教育を、できない子は切り捨て、分に甘んじることを教え、そのような人間の見方に慣れさせるといった学校・学級経営のイメージが結ばれてこよう。
(略)
学校化社会は、人間能力の学校化をすすめる。学校が、価値あるものと評価する能力、それはテストで測られ、偏差値に還元される学力、それも算数・数学ないしは英語や感じの語彙数によって代表される。そして、それらの点数尺度を規準にして序列化され、能力別にクラス分けされるなかで、人間としての値うちもまた点数序列へと同一化されていく。
(略)
私たちは、このような知の序列化と知による支配と結びつく現代能力主義を厳しく批判しつつ、その上で、人間的能力の多様さと、人間にとっての知の根本的な意味をとらえ直し、人間が学ぶ存在であることの意味を深くとらえ直すことが必要である。
99-112頁

ここでは、財界主導の「能力主義」は教育現場にまで到達して、人間の価値までも入試偏差値一つで測られているということを否定している。荒れる学校、「登校拒否」、家庭内暴力といった当時の社会問題の背景には、たとえばここに挙げられているような競争的な秩序があるはずだという問題提起である。そのうえで、一元的能力主義からの脱却の必要性が主張されている。一元的―多元的、財界従属的―教育固有的・教育価値という二つの軸があったといえるだろうか。

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日本の能力主義管理の特徴を把握しようとするとき、まず前提として留意すべきは、私たちの国には一定範囲の仕事遂行予定した技能の社会的な定義とランク付けがなく、したがって仕事上必要な能力というのもひっきょう個別企業ごとの従業員に対する要請としてあらわれるほかないということである。
企業の要請は、職務割り当てと配置の変動に応じて柔軟で弾力的に働くことのできる潜在能力の開発と発揮を基本とする。この潜在能力の評価と、多面的な側面を持つ人間そのものの評価との距離はそう遠くない。経営者は能力主義の日本型を擁護し始めた頃、日経連は、能力は体力、適性、知識、経験、性格、意欲という六つの要素から成ると述べたものである(日経連1969)。また石田光男氏は、日本の職場で高く評価される人とは、たんに仕事が横よくできるだけの人ではなく、「職務に対する態度姿勢、接する人々への態度姿勢」のあり方を含む、良い「人柄」高い「人格」を備えた人のことであると観察し(石田199)、この有りようを身分制や階級性を脱した「日本の柔らかな人間観」にもとづくものと称揚している。
日経連と石田光男氏のいうところは、前節で私が日本的能力のいま一つ要素とした〈生活態度としての能力〉と言う指摘に近い。そして、この種の日本的性格に対しては私は石田光男氏とまったく評価を異にするけれども、その点はさておき、ここから必然的に導かれる日本型能力主義を次の特徴考えてみよう。それは、「横並びの集団主義」という通説とは逆に、日本企業の従業員は個別企業によって個人別に評価され処遇されるということである。要するに、職務割当てや配置も、評価も処遇も、「人によって違う」のだ。少なくとも日本の労務管理の理念では、フレキシビリティー・潜在能力・人格の重視に続く論理的結果帰結として評価は個人別になる。同じ職種の人は、一律に「横並び」で処遇される欧米ノンエリート労働者の世界とはここが最も対照的なのである。どちらがより「能力主義的」かはくりかえすまでもあるまい。
46-47頁

教育から離れて、社会政策・労使関係論における「能力主義」である。熊沢は「〈生活態度としての能力〉」が従業員に対して求められていたとする。この点に関しては、企業で働く現場に焦点を絞った議論であるため、教育に対する影響について(もちろん、熊沢が考える必要があるわけではない)その分野の専門家によってあまり考えられてはこなかったかもしれない。「仕事第一」「会社人間」として振る舞うための「〈生活態度としての能力〉」の要請は実のところ、先ほど紹介した言葉では「学校・学級経営のイメージ」の中にある児童・生徒像に向けられていたものとあまり変わらないかもしれない。たとえば、いわゆる教育労働運動が退潮して以降、指導者に対して対抗する、団結するといったエートスをそこに見出すことは難しい。指導者に対して柔軟に適応することは、むしろ日本の学校の得意とすることであろう。(政府・)財界・企業が明示的に求めたわけではないはずの「〈生活態度としての能力〉」が学校現場で醸成されていたといえるだろうか。なお、当時の日経連の「六要素」は荒削りながらも興味深い。体力、性格も能力なのであるから、釣りバカ日誌の浜崎伝助も評価されるだろう。
さて、かつての論者が教育における「能力主義」を否定的に理解した理由は、第一にまさしくその一部が財界・企業由来のであったこと、第二に学校現場での差別、競争を促進させるからであった。この二つは現代の「能力主義」批判論にも通ずるものがあるだろうか。もし、そうだとすると、特に、その第二の点を相対化した次の新書も確認しておきたい。

学力による序列化を「能力主義」と見なし、そのような教育を「差別=選別教育」として批判する。このような見方は、これほど先鋭的ではないにしても、私たちが日本の教育を問題視する際の、基底的な認識枠組みになっている。
(略)
たしかに私たちは、生徒を学力や成績によって差異的に処遇したり、成績によって振り分ける事態をさして、「能力主義的差別」あるいは「差別=選別教育」と見る。しかしながら、国際比較の視点から見ると、こうした「差別」のとらえ方は、かならずしもどの社会にも共通する認識のあり方ではない。
(略)
欧米の研究において「差別」として扱われる問題は、まさに辞書的な意味と照応した、階級や人種・民族、性別などのカテゴリカルな違いをもとに、差異的な処遇が行われている場合である。個人の能力差や業績の差異にもとづく差異的処遇までを含めて「差別」といっているわけではない。
(略)
固定的ではない、しかも「真の学力」とはいえない成績によって生徒を序列化する教育。しそれによって下位に置かれた生徒たちに差別感を与える教育。成績や能力による差異かを差別教育として批判する認識枠組みは、「能力主義」という言葉が出現する以前に、すでに形成され、教研集会の参加教師たちの間に広く共有されていた。つまり、能力の可変性への信仰と、テストで測られる学力を「真の学力」とはみない学力観とが広まり、差別感を問題視する差別教育の認識枠組みとむすびつくことによって、今日私たちが共有している能力主義的―差別教育観がつくられたのである。
155-180頁

児童・生徒が持っている「能力」は平等であって、誰でもがんばれば学校、ひいては、それを通じて職業社会で成功できると思い込むようになる、そんな「大衆教育社会」が成立した。つまり、競争が否定されてきた一方で、同時にかえって、平等なのだからこそ学歴獲得競争が盛んになるというパラドクスが指摘されているのである。
教育関係者が「能力主義」という言葉を前にしたとき―ヤングの小説は別として―、財界、企業由来の側面に関心が行き、あるいは、能力平等・差別忌避論の側面に着目することがある。これらのことがらは現代ではどのように言及されているだろうか。新書縛り能力主義論、後編に続く(ただし、現時点ではオチが何も見つかっていない。キーワードは、「真の学力(知識・教養)」、「脱・競争(の教育)」といったところか)。

群大ビブリオバトル2018菖蒲月

本日の講義でビブリオバトルを行いました。若者に関連する書籍、ただし若者の定義はそれぞれに任せるという条件で実施した結果、全14グループのチャンプ本は以下のとおりになりました(学生が文庫版を挙げている場合には、そのまま文庫版を提示しています)。


honto.jp
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Michael Jordan https://www.amazon.co.jp/Level-Michael-Pearson-English-Readers-ebook/dp/B0134377KA/

Snow Drop〈上〉―天国への手紙 https://www.amazon.co.jp/dp/4883816281/


四畳半神話大系』、『何者』は私が「若者本縛り」のビブリオバトルを始めてから継続してチャンプ本に選ばれています。『友だち幻想:人と人の〈つながり〉を考える』については、著者が数年前にお亡くなりになったことをご存知の方もいらっしゃると思います。著者の研ぎ澄まされた思考は今の大学生にも受け継がれているようです。
チャンプ本には選ばれなかったのですが、『君たちはどう生きるか』(岩波文庫版)、『いちご同盟』、『赤頭巾ちゃん気をつけて』が偶然にも揃ったグループがあって驚きました。これらは私が大学1年生だったとき、若者論を「濫読」するゼミで読みました。『君たちは・・・』はコミック版が出版されたので理解できるのですが、まさかの三田誠広庄司薫でした。懐かしいですし、今となっても取り上げられることに感慨深いです。そこには時代を問わず、若者に共通した何かがあるのでしょうか。
ところで、いわゆるケータイ小説が1冊選択されています。今の学生が小学校高学年、中学生くらいのときに読んだということになりますか。ケータイ小説ブームの「その後」についても気になるところです。


なお、参加した学生の皆さん(多くは1年生)は本学期中に書誌情報を丁寧に書けるようになりましょう。ビブリオバトルを経てからのそれを対象とする考察の際、書誌情報を書き込みましたよね。