群大ビブリオバトル2018菖蒲月

本日の講義でビブリオバトルを行いました。若者に関連する書籍、ただし若者の定義はそれぞれに任せるという条件で実施した結果、全14グループのチャンプ本は以下のとおりになりました(学生が文庫版を挙げている場合には、そのまま文庫版を提示しています)。


honto.jp
honto.jp
honto.jp
honto.jp
honto.jp
honto.jp
honto.jp
honto.jp
honto.jp
honto.jp
honto.jp
honto.jp
Michael Jordan https://www.amazon.co.jp/Level-Michael-Pearson-English-Readers-ebook/dp/B0134377KA/

Snow Drop〈上〉―天国への手紙 https://www.amazon.co.jp/dp/4883816281/


四畳半神話大系』、『何者』は私が「若者本縛り」のビブリオバトルを始めてから継続してチャンプ本に選ばれています。『友だち幻想:人と人の〈つながり〉を考える』については、著者が数年前にお亡くなりになったことをご存知の方もいらっしゃると思います。著者の研ぎ澄まされた思考は今の大学生にも受け継がれているようです。
チャンプ本には選ばれなかったのですが、『君たちはどう生きるか』(岩波文庫版)、『いちご同盟』、『赤頭巾ちゃん気をつけて』が偶然にも揃ったグループがあって驚きました。これらは私が大学1年生だったとき、若者論を「濫読」するゼミで読みました。『君たちは・・・』はコミック版が出版されたので理解できるのですが、まさかの三田誠広庄司薫でした。懐かしいですし、今となっても取り上げられることに感慨深いです。そこには時代を問わず、若者に共通した何かがあるのでしょうか。
ところで、いわゆるケータイ小説が1冊選択されています。今の学生が小学校高学年、中学生くらいのときに読んだということになりますか。ケータイ小説ブームの「その後」についても気になるところです。


なお、参加した学生の皆さん(多くは1年生)は本学期中に書誌情報を丁寧に書けるようになりましょう。ビブリオバトルを経てからのそれを対象とする考察の際、書誌情報を書き込みましたよね。

東洋経済のネット記事「教育困難大学」について

教育困難大学」に来る学生の残念な志望動機
必然的に起きる「5月病」に苦慮する教員たち
https://toyokeizai.net/articles/-/219604

この記事の筆者は修士を取得なさっているようなので、「動機の語彙」という概念を聞いたことがあるかもしれない。「動機」は個人の思考や行動の理由をリニアに説明するものではなく、その思考や行動の理由として社会的に納得されると思われる、制限された語彙のリストから選択して語られるにすぎないというものである。当該個人もそのようなコミュニケーションの在り様の中に埋め込まれているのである。


「動機の語彙」とは、たとえば次のように説明される。
C.W.ミルズとアメリカ公共社会: 動機の語彙論と平和思想

原因、理由、目的、価値、規範、納得等のうち何によって動機を同定するかによって、学説史の基本構図が描かれる。ミルズの動機の語彙概念は、原因論の否定という争点において理解されるものである。ミルズは、行為の原因”Why?"を心理的、生理的メカニズムから考える動機論に対し、行為の状況がどのように社会的に説明・納得されか"How?"を問う動機論を対置した。動機の語彙とは、こうした状況の社会的伝達=動機の付与を行うパターン化されたことばのセットである。
(略)
ミルズの動機の語彙論は、人間内在的な客観的原因論を問う行為論的な見地に対し、人間外在的な語彙による主観的な動機の構成を問う相互行為論的な見地を提起するもの、というのが、一般的な解釈といえよう。
61-62頁

このような枠組みを通してみれば、「本当の志望動機」を問うことの意味はそれほど意味がないのかもしれない。特に、入学してすぐの1年生に対して「先生は怒らないから『本当の志望動機』を原稿用紙に書いてみてください」との指示を出したとしても、そこから出される回答は「先生」にとって了解可能であるものにすぎない。筆者は「食堂でカレーを食べてみて、この大学なら4年間食べるのにも困らないと思いました」という回答が見当違いであるという評価をしていようだけれども、その回答で用いられている表現は学生の持つ作文の力量ゆえのことである。たとえば、「高校ではいじめられていたり苦手な科目の勉強がつまらなかったりしたけれども、あの日のオープンキャンパスで感じた楽しい雰囲気が大学にあるのならば、好きな分野の勉強もできるうえに友だちも新しくできるだろうし、なんとかやっていけそうだと思った」(ただし、それを丁寧に言語化して表現することが難しかった、思いも付かなかったので記憶の中にある食堂のカレーに言及してみた、カレーのとき楽しかったなあ)などと、もう少し詳しく回答の文脈を検討してみれば了解可能な主張に近くなっていく。ただし、それは繰り返しになるけれども、そうしたコミュニケーションが適切だからと認識されているからにすぎないことを前提とした回答であって、ほんとうの「動機」などを特定することは困難だし、それを追求して何が嬉しいのか実のところよくわからない。AO入試の際に提出する志願書類に書いた「動機」も、入学後に書いた「動機」も、その文脈において了解可能な限りほんとうの「動機」である。
同じことは留年や中途退学について、ほんとうの「動機」を解明しようとすう行為にも指摘できる。もちろん、特に中退退学は学生のキャリアにとって不都合を生じさせることが多く、また、貸与奨学金を借りている場合の返済負担もその後の見込み所得に比べれば相対的に大きい。同時に、私立大学関係者にとってはお馴染みの経営上の重要な課題である。そのため、ほんとうの「動機」を分析したうえでその問題の解決を図るということが行われるのだけれども、はたしてほんとうの「動機」はほんとうの「動機」なのかという無限の繰り返しの問いが続くことになる。講義がつまらない、友人関係がよくない、やりたいことではなかったなどの「動機」は確かに了解可能であるものの、了解可能であるからこそそれらが挙げられているのだ。留年や中途退学を防ぐ対策はある部分では必要であるけれども―中途退学しても復学が容易である社会を構想することも必要だ―、「動機」の追及に多くの資源を割くのはもったいないことである。
ところで、筆者は「教育困難大学」という言葉を使って、現代のボーダーフリー大学における学生気質をテーマとした記事を連載している。今回の記事もその一連の連載の一つに位置付けられている。しかし、今回の記事もそうなのだけれども、大学全般の問題であるにもかかわらず、それをボーダーフリー大学固有の問題であるように見せかけていることがある。たとえば、来年に他の大学を受験する仮面浪人、大学の講義の水準を低く見積もって欠席を繰り返す学生への言及である。このこともまた「動機の語彙」ではあるものの、そのような概念を持ち出さなくても学生支援の現場では、そうした動機は常に揺れ動くことは知られているだろうし、かつ、この問題はボーダーフリー大学のみに表れるわけではない。たとえば、早稲田・慶應東工大・一橋の学生が仮面浪人をして東大を目指すのと同じことであるうえに、その「動機」は支援者の了解可能性が高いからゆえに選択されることもあるだろう。そして、難関大学であっても筆者のいう「表面的な志望動機」はよく聞かれることである。学生の語る「動機」を表面的なものであるとみなすか、ほんとうのものであるとみなすかは、いままさにこのブログを書いている私も埋め込まれているコミュニケーションの在り様に規定されている―数字前に「表面的」と評価してしまっている私…。
最後に、「学力」についてはもう少し慎重に考えるべきである。筆者は原稿用紙の使い方が適切ではない、という事例を挙げている。しかし、この記事からはそれは学力不足の問題なのか、その場で選択されるコミュニケーションの方法を取り違えているのかがわからない。字下げの無視、話し言葉の使用などは、難関大学の学生でも珍しいことではない。もちろん、両者の課題が相俟ってそうした表現が行われるのだけれども、後者の改善についての事例の積み重ねは初年次教育やリメディアル教育の分野において続けられてきた―「めっちゃ」「やばい」は書き言葉というコミュニケーションでは使わないよ、そうした言葉はそれ以外にもたくさんあるので今ここでいくつでも挙げてみよう、成人はどういう書き言葉を利用しているだろうね、と。もし、そのような日本語リテラシーに関する指導をしていないのであるとするならば、ご検討頂ければ幸いである。
以前、「意欲」のある学生に対してしか教育などできないとネット上で主張なさる学者がいらっしゃた。それと比較すれば、それでもなお、学習意欲があまりない学生に対しても教育しなければならないという記事の結論部分には同意できるところである。

「二つのライフ」

高大接続の本質―「学校と社会をつなぐ調査」から見えてきた課題 (どんな高校生が大学、社会で成長するのか2)

高大接続の本質―「学校と社会をつなぐ調査」から見えてきた課題 (どんな高校生が大学、社会で成長するのか2)

タイトルは『高大接続の本質』であるが、前半は1997年から行われている溝上グループの研究の総括である。後半において、その研究結果をふまえて高大接続に関する論点提起が行われている。
現在では大学生を対象とした研究はたくさん実施されている。しかし、溝上グループの研究開始時点では、それほど盛んであったわけではない。その状況の問題は、本書コラム1(22頁)で米国では昔から大学生研究が行われてきたこと(たとえば、UCLAのCIRP(COOPERATIVE INSTITUTIONAL RESEARCH PROGRAM))がわざわざ紹介されていたり、2000年代になって確かに正課教育に関心を持った調査は行われるようになったものの、それとキャリア支援・教育への関心が重なることはなかったこと(23頁)が説明されていたりすることからもわかることである。
一連の研究の中で、わかってきたことの一つが有名な「二つのライフ」の関係論である。

「あなたは、自分の将来についての見通し(将来こういう風でありたい)を持っていますか」という将来の見通しの有無をまず尋ね、“持っている”と回答した者には引き続き、「あなたはその見通しの実現に向かって、いま自分が何をすべきかわかっていますか。またそれを実行していますか」という、将来の見通しの実現に向かって日々何をしたらいいか、それを行動に移せているかの理解実行を尋ねている。
18頁

そして、溝上グループの研究をご存知ではなくても、この「二つのライフ」は学習意欲に関係することはすぐに思い付くであろう。実は、私はかつての勤務先のFDで溝上先生にお世話になり、「二つのライフ」について調査を実施したことがある。「見通しあり・理解実行」がかなり少ない(もちろん、職業的レリバンスの高い、いや、高く見えるような学部ではやや高い)、「見通しあり・理解・不実行」が多い、「見通しあり・不理解」、「見通しなし」もそれなりに多いという結果を見て、さて、何ができるだろうかと議論をしたのである。そこから、その勤務先におけるキャリア意識、現在の言葉でいうところの「アクティブ・ラーニング」、IRなどについての課題が出てきたのであった。
ところで、私は高大接続に関する調査をあまり追えていなかったので、本書は勉強になった。同調査の結果の一部は次のようにまとめられている(86-87頁)。

<1>高校2年時における4つの資質・能力は、大学1年時のそれぞれの資質・能力に大きく影響を及ぼす。(二宮注:4つの資質・能力とは複数の回答項目を統計的にまとめて、他者理解力、計画実行力、コミュニケーション・リーダーシップ力、社会文化探究心と名付けたもの)
<2>大学1年時で主体的な学習態度を持っていることが、資質・能力を身につけるために、アクティブラーニング外化を行うために重要である。
<3>大学1年時の主体的な学習態度は、同じく大学1年時の二つのライフで説明される。その二つのライフは、高校2年時のキャリア意識に大きな影響を受ける。
<4>高校2年時の資質・能力のなかでも、計画実行力は大学1年時の主体的な学習態度に影響を及ぼし、コミュニケーション・リーダーシップ力は同じく大学1年時のアクティブラーニング外化に影響を及ぼす。
<5>特にジェンダー、大学偏差値、学部学科、中高一貫の属性・社会的要因が、資質・能力や学習、キャリア意識に影響を及ぼす。
<6>高校2年次の勉学タイプ、勉強そこそこタイプは、大学1年時の学びと成長(資質・能力・学習、キャリア意識)につながる生徒タイプである。授業外学習を行う、キャリア意識が高い、対人関係、自尊関係が良好であること、すべてをバランスよく持ち合わせることがポイントである。(二宮注:生徒タイプとは複数の回答項目を統計的にまとめて、勉学タイプ、勉学そこそこタイプ、部活動タイプ、交友通信タイプ、読書マンガ傾向タイプ、ゲーム傾向タイプ、行事不参加タイプと名付けたもの)

この結果は初年次教育関係者にとっては、経験的にわかっていることであるとはいえ厳しいものである。筆者も指摘していることだが、たとえば、高校時代に家庭学習をする経験のなかった生徒が大学入学後にそれをするようになるのは難しいのかもしれない。どうすればよいだろうか。
私が半分程度納得する点1つと疑問を覚える点1つは次のことがらである。まず、半分程度納得する点は大学教育の内容・方法に関する工夫の開始が遅かったということである。

天野(2006)が述べたように、1990年代以降今日までの大学教育改革は、本来なら1970~80年代に行っておくべきだったものの後始末である。高度経済成長を経て経済大国として確立した時期、そして学校から仕事へのトランジションが幸せなことにもうまく機能していた時期にやりすごしてしまった教育改革を、バブル崩壊後の国内・国際的な仕事・社会の変化に対応しながら、さらなる少子高齢化やAIなども加味しながら進めているものである。
148頁

レジャーランド、カルチャーセンターなどと揶揄されていた時代に、どうしてそれをそのままとしていたのかという問題提起でもある。半分程度という留保を付けたのは、大学は大きなタンカーのような組織なので、臨機応変に舵を切ることが難しいためである。相応の時間が必要であったのかもしれない。そして、疑問を覚える点は、はてさて、高校、大学のその先において、何のために「自律的な学習者」になることが必要なのかということである。企業と連携した調査もあることから、見方によっては立派なビジネス・パーソン、企業人になるためのそれであると把握されるかもしれない。しかし、当然のことながら(言い古された言葉だが)大学は就職予備校ではなく、商売に有利というだけでは伝統的な研究者からの賛同は得られないかもしれない。将来の商売とは異なる次元での「自律的な学習者」になることの意味を考察したいところである。

群大生への連絡(2018.4.11)

前期水曜5-6限の二宮担当講義についての連絡です。
Moodleにアクセスできない場合、今週(4/18提出予定)の宿題は行わなくても構いません。再来週以降にあらためて提出して頂くことになります。

辺境にある学問

変容する社会と教育のゆくえ (教育社会学のフロンティア 2)

変容する社会と教育のゆくえ (教育社会学のフロンティア 2)

執筆者のお一人からお送り頂きました。勉強したいと思います。ありがとうございます。
終章「まとめと展望」は同世代の研究者によって書かれているためか、うんうんと頷きながら読みました。院生時代の構築主義の「洗礼」(私の場合はどちらかというと学部生時代でしたが)、勉強好き・学力好き・学校好きな「教育社会学ハビトゥス」、後期近代論つまみ食いなど、ほんとうにそうだよなと思いながら反省を促された思いが強いです。
4章「知の変容とアカデミズム」では、二宮祐・小島佐恵子・児島功和・小山治・濱嶋幸司、2017、「高等教育機関における新しい『専門職』 : 政策・市場・職能の観点から」『大学教育研究ジャーナル』14号を引用していただきました。旧制予科・専門部由来の旧教養部、旧講座制専門学部などの組織編成の問題として、新しい「専門職」―多くはそのどちらでもない「センター」や「本部」等の名称を持つ組織に所属する―について検討する必要を求められたと理解しています。私としてはこれまであまり考えてこなかった論点なのですが、確かに重要です。FDの「知」、研究支援の「知」、産官学連携の「知」など、大学運営に関する「実践的」な「知」の生産や消費の性格について、いずれ検討しなければらないのだと思います。
また、3章「若者とトランジション」を読んで、移行研究は大学教育に対して実践的な貢献をもたらすものであると理解しました。筆者も主張するとおり、課題を抱えた若者に対して研究が集中する傾向があります。相対的には「楽」な若者についてはそのリアリティに迫る課題を設定すると、とりわけ年長の研究者からそれは重要な問題ではないと戒められることもあったでしょう。しかし、それにしれも移行についてはまだまだわからないことが多いです。ユニバーサル時代のそれを明らかにすることによって、学校から職業への移行過程にある大学が行うべきことがより明確になるのでしょう。