辺境にある学問

変容する社会と教育のゆくえ (教育社会学のフロンティア 2)

変容する社会と教育のゆくえ (教育社会学のフロンティア 2)

執筆者のお一人からお送り頂きました。勉強したいと思います。ありがとうございます。
終章「まとめと展望」は同世代の研究者によって書かれているためか、うんうんと頷きながら読みました。院生時代の構築主義の「洗礼」(私の場合はどちらかというと学部生時代でしたが)、勉強好き・学力好き・学校好きな「教育社会学ハビトゥス」、後期近代論つまみ食いなど、ほんとうにそうだよなと思いながら反省を促された思いが強いです。
4章「知の変容とアカデミズム」では、二宮祐・小島佐恵子・児島功和・小山治・濱嶋幸司、2017、「高等教育機関における新しい『専門職』 : 政策・市場・職能の観点から」『大学教育研究ジャーナル』14号を引用していただきました。旧制予科・専門部由来の旧教養部、旧講座制専門学部などの組織編成の問題として、新しい「専門職」―多くはそのどちらでもない「センター」や「本部」等の名称を持つ組織に所属する―について検討する必要を求められたと理解しています。私としてはこれまであまり考えてこなかった論点なのですが、確かに重要です。FDの「知」、研究支援の「知」、産官学連携の「知」など、大学運営に関する「実践的」な「知」の生産や消費の性格について、いずれ検討しなければらないのだと思います。
また、3章「若者とトランジション」を読んで、移行研究は大学教育に対して実践的な貢献をもたらすものであると理解しました。筆者も主張するとおり、課題を抱えた若者に対して研究が集中する傾向があります。相対的には「楽」な若者についてはそのリアリティに迫る課題を設定すると、とりわけ年長の研究者からそれは重要な問題ではないと戒められることもあったでしょう。しかし、それにしれも移行についてはまだまだわからないことが多いです。ユニバーサル時代のそれを明らかにすることによって、学校から職業への移行過程にある大学が行うべきことがより明確になるのでしょう。

働く青年

この1、2ヶ月ほど、たとえば次のような本を読んでいた。高等教育論を研究していると、どうしてもその対象としてかつてはエリートであった大学生を選んでしまう。しかし、ある時期までは大学生が同年代の若者・青年の中では特殊であったことを思い起こすために、ノンエリートの生活世界を考えてみることも必要なのだ。

青年の主張:まなざしのメディア史 (河出ブックス)

青年の主張:まなざしのメディア史 (河出ブックス)

集団就職《高度経済成長を支えた金の卵たち》

集団就職《高度経済成長を支えた金の卵たち》

ニュータウンの社会史 (青弓社ライブラリー)

ニュータウンの社会史 (青弓社ライブラリー)

卓越化と大学

文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

文化・階級・卓越化 (ソシオロジー選書)

  • 作者: トニーベネット,マイクサヴィジ,エリザベスシルヴァ,アランワード,モデストガヨ=カル,Tony Bennett,Mike Savage,Elizabeth Silva,Alan Warde,Modesto Gayo‐Cal,磯直樹,香川めい,森田次朗,知念渉,相澤真一
  • 出版社/メーカー: 青弓社
  • 発売日: 2017/10/26
  • メディア: 単行本
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訳者のお一人からお送り頂きました。ありがとうございました。
ブルデューについては学部生の頃に当時の訳書数冊をひとりで読もうとして挫折していまして、院生の頃にゼミでバジル・バーンスティンを勉強するのと合わせて読んだ経験があるものの、まだまだ勉強不足なのでとても感謝しています。高等教育論においてもブルデューから学ぶことはたくさんあります。また、あらかじめ申し上げておきますと、「見つけられない図表」は225-232頁に掲載されています。




さて、本書では文化資本の種類やその働きを現代英国の状況に即して再検討することを試みている。

われわれは文化資本の構成要素を識別し区別すること、そして、いままでにない新しい状況で文化資本の有効性を考察することが重要だと考えている。これがとりわけ重要だと考えられるのは、ブルデューの著作や資料のなかに資本のタイプやそれらの互いの関係性に関する明確で体系的な説明が残されていないからでもある。彼は繰り返し経済資本、文化資本社会関係資本、そして象徴資本を区別している。また、その精確な由来や内容を突き止めることは困難であるものの、ある論考のなかでは、文化資本を三つの下位タイプ―制度化・身体化・客体化―に分類している。
(略)
後期の研究では、これらに加え、社会集団によっては異なる形態の文化資本が動員されている可能性を認識する必要性が提起されている。晩年の研究の一つのなかでブルデューは「技術資本」という概念を導入している。
(略)
さらに、特定の下位文化の成員の間で限定的に流通する資産と呼べる下位文化資本がある。この下位文化資本には、特定の年齢集団の観点から、あるいは特定のエスニック・コミュニティ固有な文化的ノウハウやありふれた知識の観点から、定義されうるものである。
(略)
これらは様々な形態の資産のなかでもとりわけ重要なものであり、社会的世界と社会的文脈に取り入れられたり、経済的機会、価値のある社会的コンタクト、名誉や評判などへと変換されたりする資産である。文化資本を解明するには、それらすべてに注意を向ける必要がある。どのようにして、こうした資本の様々な形態が承認されるようになり、相対的に価値づけられるのかについて、さらなる考察が要求される。『ディスタンクシオン』の議論で強調された主要な点は、階層的序列化の二つの標識、すなわち、正統文化の運用とカント美学の適用だった。文化資本を最も多く持っている人々は両者を示していた。しかしながら、カント美学は、文化消費の様態で社会的な名誉と評判の要請を見つけて伝達するいくつかの志向性のなかの一つにすぎない。
無関心性というカント美学的エートスに通じることで、日々の生活の実践的必要性から距離をとり、「抽象的」文化形態を鑑賞する能力を得られる。このことはブルデューによって、文化資本の構成要素として重要なものとされている。
65-66頁

分析の結果、英国の文化的組織は多様であって一枚岩であるわけではないこと―わかりやすい図式で示すことなどできない―、いくつかの留意が必要であるとはいえ「文化的オムニボア」の傾向もあることなどが示される。また、本来は仮想敵であったゲーリー・ベッカーの人的資本に相当するような「技術資本」、人びとの関係性に役立つような「感情的文化資本」、伝統の存在を前提とする「ナショナルな文化資本」、限定された場所や状況で価値を持つ「下位文化資本」などがあり得るとするのである(471-473頁)。
様々な階級の方を対象としたインタビュー記録の会話を日本語にすることや、そのために英国の文化状況について詳しくなければならないといった困難―たとえば、外国のテレビとか音楽とかの文脈を理解するのは難しそうである―が訳出の際にあったと思われて、こうした文献を日本語で読めるのはありがたいことである。日本であれば、アニメ、ライトノベル、ボカロ、あるいは、(これは訳者のお一人から考えられる例として聞いた)大衆演劇などはどうなるだろうと考えるのも楽しいことである。やはり文化的オムニボアでしょうか。他方、そして、読み進むにつれて以前から悩んでいる問題について、再びもどかしさを感じるようになった。

ここで言うカント美学とは、文化と日常生活の距離を称揚し、そうした距離こそが、文化資本それ自体の中心的で明確な特質だと考える立場である。
146頁

その問題とは大学に対して主張されるいわゆる人文系不要論である。人文系学問の担い手が日常生活からかけ離れていて「役に立たない」からこそ、あるいは、人類の300年後の未来になってようやく「役に立つ」かもしれないからこそ、その学問が重要である主張するとき、その当事者はまったく意図してはいないだろうけれども、それは「スノッブ」であると評価されてしまうかもしれない。本来は冗談で言われることではあるが、私は理工系の研究者から「シェイクスピアなんて講義されても困るんだよね」と実際にいわれたことがある。もちろん、シェイクスピアは人文系の象徴として取り出されたものである。そのときの私が受けた印象は、単にカリキュラムに人文系学問を位置付けるという問題であるというよりは、「じぶん(たち)には理解できないことで、かつ、『役に立たない』ようにみえることであるにもかかわらず、さも理工系に比べて高尚であるかのように振る舞っているので納得できない」という趣旨の表明であった。すなわち、大学をどうするか、カリキュラムをどうするかという議論をするときに、それぞれの学問分野が持っている日常生活との距離を賭け金としたせめぎ合いがあり、「大衆化した大学」において人文系の持つ賭け金のレートが不利になってしまっているように思えるのである。そのときに、なお「無関心の満足」が学問のアイデンティティであるとするならば、どのように問題を打開することができるだろうか。訳書で紹介された書物や絵画といった文化の各分野と同じように、学問分野も位置付けられるのだろう。

学校から仕事へのスムーズでもなく、間断のないこともない移行

honto.jp
執筆者のお一人からお送り頂きました。ありがとうございます。

問題意識は次のように示されている。

若年層の教育および職業キャリアをめぐる状況は近年大きく変容してきたといわれる。広く社会的にも話題となっているフリーター・ニート問題のみならず、高校と企業を繋いでいた学校経由の就職システムの揺らぎ、少子化と大学数の増大による進学チャンスの拡大、就職協定廃止や長期不況の影響による大卒就職活動の長期化やインターネット利用による就職メカニズムの変容、学卒後3年以内の離職率とジョブマッチングの問題等々、この領域に関連して実態解明が求められているテーマは多岐にわたる。多くの若者たちの教育・職業・生活の軌跡を追い続ける「若者の教育とキャリア形成に関する調査」を私たちが企画・実施したのは、まさにこうした多面的問題を解明する基礎資料を得ることを目的としたものといえる。
3頁

考察の対象は、若者の労働経験、若者と家族、地域移動、学校と不平等、人間関係、困難な暮らしなどである。幅広く重要な論点が網羅されている。私がとりわけ関心を持ったのは、第11章「学校経験と社会的不平等―『意欲の貧困』を手がかりに」である。思い起こせば、苅谷剛彦『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)』が発行されたのは2001年のことである。「新学力観」のもとで「興味・関心」、「内発的動機づけ」が重視されるようになったものの、社会階層毎の学習意欲に格差の拡大が進んだのではないかと問題提起が行われたのであった。「階層と教育」の問題は、不平等が拡大再生産されていくという「新しいフェーズ」に入ったとさえ呼ばれていた。それから16年が経過して、さて、どうなったであろうか。
パネル調査のうち、2011年の第5回調査の結果の分析では、頑張ることを困難にさせる「意欲の貧困」は経済・健康に関わる生活の状況や、本人の学歴と関係しているという。また、学校経験によって得られた進路展望や人間関係は、生活の状況や本人の学歴とは独立して「意欲の貧困」に影響を及ぼしていて、かつ、そもそも豊かな学校経験は父学歴や本人学歴によって影響されているとのことである。すなわち、苅谷が提起した問題は、依然として存在しているといってよいのだろう。
そうした分析をふまえたうえで、トラッキングによって特に厳しい状況に置かれている中堅普通科高校を想定して、教育内容の文脈付けを行う必要が提起されている。論考の射程を超えてしまうことなのであるが、私としてはもう少しその詳細を知りたいところであった。というのも、教育の職業的意義を重視して「柔軟な専門性」を獲得しつつ労働問題へ適切に対応できるようになることを主張する本田由紀と、職業教育の重要性を認めつつも、政治的教養を重視して能動的な市民として振る舞えるようになることを主張する広田照幸とを紹介しつつ、両者は主張は異なるものの具体的な文脈と教育とを繋げる点では共通しているとまとめているのだけれども、私は第1に、「意欲の貧困」にとっての「効果」や「意味」について両者は同じではないような印象を持っていて、その点をどう考えられるだろうかということ、第2に、その具体的な文脈を考慮した教育は系統主義/経験主義の論点をくぐらせてみると、どのようなものとして具現化するのだろうかということを考えてみたくなったのである。

全410ページの厚い本である。会読の機会を設けてみたい。