学内FD:ポートフォリオの活用・アクティブラーニング

f:id:sakuranomori:20170720101219j:plain
先日、医学部保健学科の「教育ワークショップ」において、ポートフォリオの活用とアクティブラーニングをテーマとしてお話しさせて頂きました。保健学科の皆さまのお時間を頂戴いたしましてありがとうございます。
当日の内容は次のとおりです。


1.自己紹介
2.ポートフォリオの活用
2.1.文部科学省中央教育審議会による現状認識
2.2.学習観の変容(1)―知識・スキルの活用、問題解決
2.3.学習観の変容(2)―学習者中心の考え方へ
2.4.ポートフォリオの種類
2.5.ラーニング・ポートフォリオの定義
2.6.ラーニング・ポートフォリオに含むべき要素
2.7.理論的背景
2.8.事例
2.9.群馬大学ポートフォリオ自由記述についてのご提案
2.10.(授業についての)省察のための問いかけの事例
3.アクティブラーニング
3.1.その定義
3.3.その必要性
3.3.講義と組み合わせたアクティブラーニングの例
3.4.よくある質問


余談として言及したことですが、いわゆる「大学改革」の諸プログラムの中にはとりわけ専門職養成とは折り合いのあまり良くないものがあります。プロフェッショナルとして仕事ができるようになるための知識・技術の伝達がまず先にあることは間違いなく、当然その価値を損なうようなことはするべきではない旨を強調いたしました。また、学生の思考を活性化するという意味でのアクティブラーニングは、そのように言われてみれば多くの先生がすでに採用なさっていることかと思われます(それは決して身体を動かすという意味ではありません、アクティブという言葉が誤解を生じさせがちです)。
ワークショップ後の雑談において、私は保健学科の教育文化、学生文化について大変勉強させて頂きました。皆さまにお礼申し上げます。


追記:そうは申し上げつつも、当日紹介したA4の色紙をクリッカー代わりに使う方法も参考にして頂けますと幸いです。また、その実演へご協力賜りましたことも感謝しております。

国立大学教員数(続編)

衆議院議員河野太郎公式サイトに掲載された国立大学教員の給与総額について、平成13年度が最大値で、平成25年度まで継続して減少、その後やや増加するという経緯を辿ることができる。では、具体的にはどのようなことが生じていたのだろうか。
f:id:sakuranomori:20170710153031j:plain
図1は教員数の推移を示している。教授、助/准教授ともに増加から横ばいになるという傾向があった。
f:id:sakuranomori:20170710153038j:plain
図2は平均給与月額を示している。平成13年度がピークであり、以降減少し続けている。特に、東日本大震災の復興財源を捻出のための特例措置として給与カットが行われていた時期の減額幅は大きい。
f:id:sakuranomori:20170710153542j:plain
図3はその支払われた給与総額を示している。教授、助/准教授ともに増加した一方で、一人当たりの支給額が減っているためであろうか、やはり総額も減少傾向にある。
f:id:sakuranomori:20170710153709j:plainf:id:sakuranomori:20170710153716j:plain
ところで、図4、図5は35歳未満の若手教員の割合の推移を分野毎に示している。私立大学はもともと若手教員が少ない一方、国立大学では採用抑制の影響を受けたためか、どの分野でもその割合が減少する傾向にある。
まとめてみると、教授、助/准教授の数は増加したものの、1人当たりの給与支給額が減ったために、その総額も減少したのと同時に、若手教員の割合が減って教員の「高齢化」が進んでいるということになる。若手の割合が増えたから給与総額が減ったということではない。

国立大学教員数―増えた分野はどこか

www.taro.org
f:id:sakuranomori:20170706125505j:plain

衆議院議員河野太郎公式サイトに掲載された国立大学教員数に関して、実感に合わないというお声を複数聞いた。そこで、私なりに整理しなおしてみた。
表1は3年ごとに実施される「学校教員統計調査」のうち、「大学等の部―教員個人調査―年齢区分別・専門分野別・本務教員数」の数字を並べてみたものである。社会科学、工学、保健、その他で増員の傾向が見られる。特に増えているのが保健である。ただし、このデータには任期付教員も含まれている。「学校教員統計調査」で調べられている離職教員数について、保健は毎回1,000人以上となっているのでかなり流動的な分野なのであろう。
お昼休みの時間を使ってまとめただけなので、今日はここまで。時間があれば、職階別、年齢別もまとめてみたい。定年延長が何かに影響を与えているという仮説も残されている。また、その他とはいったい何なのか(FDer?URA?)。

大経コース@東大研究会

本日は東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策コースの研究会「大学のマネジメントに関する勉強会」にお招き頂きました。各大学の職員さんや若手高等教育研究者が集う会で、私はとても勉強になりました。ありがとうございました。私がお話ししたのは、6月中旬に刊行された『反「大学改革」論:若手からの問題提起』では書ききれなかったことと、そこで触れた補助金政策に関連して、現在進行形で生じている「ブレインドレイン」(頭脳流出)についての論点です。前者については同席なさっていた経済学者の方より、仮に大学改革がかつての「産業政策」と同じように政府からの誘導という性格を持っているとするならば、その成否は危ういだろうという指摘を頂きました。確かに、かつてであれば「産業政策」は成功したモデルとして肯定的に言及されることが多かったものの、今では批判的に吟味されているはずです。高等教育に関する各種のプログラムについても、優秀な官僚によって誘導されるというのではなく、「市場」に任せるという方法もありうる構想なのかもしれません。
後者については、最近気になっていたことを自分なりに整理する機会となりました。「ブレインドレイン」に関して、社会学で議論されてきたグローバリゼーションの諸問題を思い出していました。たとえば、第1に、グローバリゼーションによって、大企業は税率が低くインフラの整った国家へ移動していくこと、国家は大企業を誘致するための競争を始めること、労働運動は無効化されること、その辿り着く先にあるのは徴税能力を失う一方で失業した国民に対して給付するサービスの増加であるということです。第2に、グローバリゼーションはかえってローカルな価値を呼び覚ますということです。国家や地方への愛着が増し、地域ナショナリズムの台頭を誘います。第3に、グローバリゼーションにとって、エリートはいつでも不都合な場所から逃げ出して国境を飛び越えて活躍できる一方、残された人びとはますます困窮化するといった階層の分化が進むということです。以上のことについて大企業を学者に置き換えた場合に、とりわけ右派からの反発は強そうな印象を持っていました。日本国内で補助金を受けて養成された学者が他国で活躍するとき、学者個人にとっては望ましいキャリアである一方、「納税者」*1がそれを許容できるでしょうか。優秀な学者から薫陶を受けるためには国外へ出なければならない時代が到来するとして、それを好ましくないと評価する方もいるかもしれません。特にローカルな価値に目覚めた「納税者」は「国益」を気にして学者の国際的な移動を否定する可能性もあるでしょう。
実はこれらの問題は、教育学では「村を捨てる学力」というテーマで考え続けられてきたことでもあります。昭和30年代の閉鎖的で生産性の低い農村において、子どもに教育を施すことによって村を豊かにしようとするのだけれども、結局は子どもは都会に出てしまって村はそのまま取り残されることについての問題関心です。まさしく、上記の第3の例と同じことです。期待を受けて育成された学者なり農村の子ども個人のキャリアと、国家なり村なりの存続・繁栄はいかにして両立可能なのか、そうした論点を提起しました。なお、インターネット上の掲示板では、やはり「ブレインドレイン」に対しては右派の立場からの否定的な見解がかなりあるとのことでした。
継続的にこうした問題について考えられる機会があれば幸甚です。

*1:「納税者」概念を持ち出すことの危険性については以前に言及したとおりです。ここでは、あえてこの言葉を使っています。

鍵のついた書籍を読み上げる時代からの長い伝統を持つ講義法について

講義法 (〈シリーズ 大学の教授法〉2)

講義法 (〈シリーズ 大学の教授法〉2)

待ち望んでいた書籍が出版された。たとえば、これまでアクティブ・ラーニングに焦点を絞った関する良書は複数刊行されてきたものの、日本語で書かれた「講義法」についてはあまり良いものがなかったように思われる。教育学に依拠して書かれたものは理論ばかりに着目していて、実践的なものではなかったといえるだろう。しかし、この本は実践的であるうえに、読み手である学者を満足させられるようなその実践を支える理論(心理学、コミュニケーション論など)も紹介している。単なる授業方法のハウツーを示されただけでは納得できないという学者のことをよく考えているのである。
ところで、アクティブ・ラーニングに対する批判の類型の一つに、講義/座学こそがアクティブ・ラーニングであるというものがある。「アクティブ」というと身体を動かすとイメージがあって、その中には精神的な知的活動も含まれるはずであるという主張である。それは十分に納得できるものであって、本書では講義法を「学習者の知識定着を目的として、教育者が必要に応じてメディアを使いながら口頭で知識を伝達する技法」(4頁)と定義した上で、あくまでも講義/座学の中で学生がいわば「アクティブ」になる工夫を紹介している。以下はその一例である。

聞き手は、自分に話しかけられていると思わないと真剣に話を聞いてくれません。そのように思わせる方法の一つが、聞き手の目を見ること、つまりアイコンタクトをとることです。これは簡単な行為に思えますが、実際は難しいものです。1対1の場合は問題なくアイコンタクトをとれても、多人数が相手の場合は視線をどこに向けてよいのかわからず、教室の天井や後ろの壁を見ながら話す教員も少なくはありません。黒板やスクリーン、あるいは教科書や講義ノートを見つめながら授業を続ける教員も多くいます。これでは、非言語コミュニケーションを通して、学生には関心がないというメッセージを発信していることになります。
アイコンタクトをとる際の注意点は、漠然と全体を流すように見ずに、一人ひとりの目を5秒程度見ることです。その際、一つの文章ごとに1人の学生に視線をあわせるようにし、文章の途中で視線を移さないようにします。これを「ワンセンテンス・ワンパーソンの原則」と呼びます。
(略)
アイコンタクトをとることには、別の意味もあります。学生の表情や行動に視線を向けて、よく観察することで、理解度や興味・関心の程度を把握することができます。たとえば、教員を見る量が多い学生ほど、授業の理解度が高いことが明らかになっています。また、学生は興味深い場面で、「顔上げ」行動をとったり、微笑みや自発的なメモの量を増加させる行動をとったりします。
90-91頁

スライドに書かれた文字をそのまま読み上げないようにしましょう。「読む」対象と「聞く」対象が同じなので、学習者は重複感や単調さを感じてしまいます。これを避けるためには、スライドを読み上げ原稿のように作成しないことです。スライドは説明する内容をすべて書くのではなく、箇条書きにして、口頭のみで伝達する情報の余地を残しておきます。
そして、口頭のみで伝達する情報については、学生に視線を向けて話しかけるように説明します。講義法の主たる伝達媒体は口頭であり、スライドはあくまでもその補助手段であることを忘れないようにしましょう。この際、スクリーンやパソコン画面を見る機会は最低限にしながらも、口頭での説明内容とスライドの提示内容がずれていないかどうかをときどき確認しながら話します。
116-117頁

私が特に参考になったのは「スコープ」を定める方法についての整理である。教育学でいう「スコープ」と「シークエンス」の「スコープ」である。これまで「教科書準拠」や「学問準拠」ではない種類の授業を担当することが多く、そのスコープの定め方を経験的には理解していたつもりであったのだけれども、うまく言語化できていなかったためである。たとえば、以前の勤務先で担当した「大学での創造的学び」は、「学習者欲求準拠」でスコープが定まっていた。学生が望むことを予想して、内容について決定する方法であって、「多様なニーズをまとめあげ、それらに対応する内容を短時間で用意する必要があるという点で、教員の負荷は高い」(38頁)とのことである。書かれているとおり、学生のモチベーションが低い場合、さらに難解になる方法である。また、別の勤務先で担当した「現代若者論」は、「社会問題準拠法」である。わけのわからない(?)社会科学に触れ始めたばかりの学生に対して、身近なトピックを扱うことでモチベーションを高めることを目的の一つとしていた。「各種メディアを通じて、国内外や地域の事例・トピックを幅広く収集する必要があるという点で、教員の負荷は高い方法」(37頁)である。私の仕事は学生理解が必要なので当然そうした「収集」は常日頃から行っているのだけれども、やはり負荷は確かに高い。ともあれ、私自身の仕事に名前が与えられたような印象を持ったのである。


荒牧、桐生、昭和各キャンパスにいらっしゃる同僚の先生方へ
本書に限らず、授業に関する書籍百数十冊を研究室で所蔵しています。個人所蔵のものでありますけれどもご関心のある方にお貸しすることもできますし、できればこうした書籍を数冊ご購入頂けるとありがたいです。