『反「大学改革」論』本が出ます

6月中旬に『反「大学改革」論:若手からの問題提起』が刊行されます。


(出版社さんから掲載許可を頂いた書影です)
https://honto.jp/netstore/pd-book_28478516.html
(honto:本の通販ストア)

本書の趣旨と問題意識
「これから大学はどうなっていくのだろうか」。
いま、この問いをもっとも切実に受けとめているのは、いわゆる「若手」、つまり三十代から四十代にかけての大学教員・研究者であろう。この世代は、一九九〇年代以降、急速に進められてきた一連の「大学改革」のただなかで、大学、大学院、そして大学教員・研究者生活を経験してきた。つまり、この世代は、自分たちが学生の頃に経験した「大学」が急速に姿を変えていく、その過程を、肌身をもって実感してきた世代なのである。また、文部科学省が主導する「大学改革」――もとより、文科省もまた、他の省庁や財界など、複数のアクターによるさまざまな要求の変換装置でしかないともいえるが――に、恩師をはじめとする上の世代の大学人たちが、不満や絶望を漏らしながらも従わざるをえないでいる状況を、間近にみてきた世代でもある。
(略)
編者、執筆者のそれぞれが、煩瑣で膨大な大学業務、あるいは生活をつなぐための非常勤講師とアルバイト、そしてそれらの合間をぬってかろうじて継続する自身の専門的研究で、ほとんど完全に忙殺されているなか、上記のような営みを遂行するにはかなりの労苦をともない、しかもとうてい十分になしえたとはいえない。しかし、それを承知のうえで、あえてわれわれは、不十分な本書の出版に踏み切ることとした。なぜなら、本書の何よりの目的は、大学と大学改革をめぐる、すべての大学人による公共的な議論のための呼び水となることにほかならないからである。「目的」というよりも、それがわれわれの「願い」であるといったほうが正しい。
「はじめに」p.ⅰ~ⅴ



 私は執筆者の中では、最もいわゆる「大学改革」に近い、いや、その言葉どおりの仕事をしてきたのでしょう。そのため、私がそれを批判的(否定的ではない)に論じることについて、不可解である、優柔不断である、修正主義者であるといった感想や疑念をお持ちになる方もいるでしょう。しかし、私としては日々大学の外部はともかくとして、大学の内部からも様々なご要望を頂戴して、その中には「大学改革」として提案されていることがらが相応しいものもあることゆえに、必ずしもすべての「大学改革」を否定するべきではない、しかしながら他方同時に、この本で書いたように教育学や、教育諸学の学説上不適切であることについてはしっかりと指摘するという立場をとっていることから、小さな論考を書かせて頂きました。こうした立場については、たとえば国家対大学、大学対財界、教員対学生といったように、何かしらのものごとを二項対立でざっくりと捉えたい要望がある場合には理解しにくいかもしれませんが、実践であれ理論であれ、「グリッド」をできるだけ細かくして考察するということが大切だと考えています。


 そのような扱いづらい立場をとるもう一つの積極的な理由は、学生によって「大学改革」が迫られているという現状認識があるためです。マーチン・トロウという米国の社会学者による高等教育の発展段階論は有名でしょうか。トロウは概ね若年層の人口に占める大学在学の割合が15%までをエリート型、15%から50%までをマス型、50%以上をユニバーサル型と名づけて、高等教育の「理念型」(理想の形という意味ではなく、社会学の考え方の一つですね)を示しました。そして、私がトロウによる整理の中で重要であると理解していることが、それらの段階の移行時点で、いくつかの矛盾が生じるというものです。これまでよく言われたことは、エリート型からマス型への移行段階での、世界的に流行した学生運動との関係です。現代に比べて通信手段が便利ではなかった60年代において一斉に学生運動が盛んになった理由のうちの一つを、当時の大学の変容に求めるというものです。日本の場合、「教授たちよ、研究室でのうのうとレコードでクラシックなんか聞きながら研究しやがって、俺たちは大学を出てもサラリーマンにしかなれないのに」という台詞があったでしょうか、大学生の位置付けが官吏や財閥系社員になることが決定されている戦前のようなエリートではなくなったにもかかわらず、講義(知識)の内容やその伝達形式、教員の振る舞い、教室の雰囲気、正統であると認められる文化等がそれに対応していないことへの苛立ちも関係していたかもしれません。そして、当時は「大学改革」という言葉は使われていないのですが、実は70年代に少しずつマス型への軟着陸が政策として進められました。学生から不評であった一般教養科目の柔軟化、私学助成を通じた教室や教員一人あたりの学生数の改善が行われたり、最も知られていないところでは、すでに今でいうリメディアル教育が開始されていたりもしました。


 さて、2016年3月の高校卒業者のうち、大学・短大進学者は54.8%、専門学校進学者は16.3%、合わせて71.1%でした。トロウの言うユニバーサル型に辿り着いています。エリート型の時代にマス型の在りようを予想できなかったのと同じように、マス型の時代には想像できなかったユニバーサル型の大学が実現しています。かつての学生運動とは異なる方法で、学生は問題を提起しているかもしれません。「先生たち、じぶんの好きな研究で給料貰えてていいよな、いろいろ自由そうだし、ネットでつまらないことばかり言ってたりするし、私たちは面倒で大変なシューカツをして『社畜』になるばかりのブラックな日常にいるのに」という声もあるでしょうか。学生による要求のうち「大学改革」と重なるもの/重ならないもの、対応するべきもの/するべきではないものを考察して、「大学改革」に関連するから全否定するというのではなくて、実践する/しないを決める必要があるはずです。

 
この本は、まさにその「現場」の最前線にいる若手が、安易に何かを決め付けてしまうことなく、「現場」の問題に向き合うために様々な矛盾や、ことがらのせめぎ合いに関してじっくりと考えたことの成果がまとめられています。執筆者陣の学問分野は多様なのですが、それぞれの論考から同じような張り詰めた学問的緊張感と、学生に向き合う厳しい真剣さが伝わってきます。執筆に関われたことを深く感謝しております。

研究プロジェクトのウェブサイト

大学における新しい専門職に関する研究

科研のプロジェクトのサイトをつくりました。研究成果等の発信を行う予定です。
「第三の領域」についてどちらかというと研究者の立場からみているという限界があるので、職員からみたそれについては不十分であることが予想されます。学会等でご批判を頂ければ幸いです。
ところで、コラムって何を書けばよいのか、悩んでいます。

絶望かもしれないけど運動するよ(春の若者論三本勝負最終戦)

春のひとりで若者論を読む企画、第3回(最終回)である。2017年3月に発売されたばかりの新刊を読む。思いつくままに感想を書く。整理された文章ではなく恐縮である。

社会運動と若者:日常と出来事を往還する政治

社会運動と若者:日常と出来事を往還する政治

なぜ若者を対象とするのか、その場合の若者とは誰のことなのかについて、第1章の導入部分、第2章の分析の準備部分で紙幅を費やして説明が行われている。そのことじたいが興味深く、単に社会学において学術上の意義があるから当然だという言い方では理解を得られないという、現代の若者を巡る状況が垣間見られるのである。

本研究において若者をどのように定義するかということは、単なるインタビュー対象者の選定にとどまらない、本書の意義を考える上でも重要な作業であろう。
(略)
しかしなお、年齢・世代という変数によって対象者を選定することは、ある特定の集団(本書では「若者」)による集合的な社会運動への参加や、個人的に日常生活を営む上での人的ネットワークなどをみる際に、社会運動サブカルチャーの特質を把握する手がかりになると筆者は考える。若者たちの多くは、学校生活を通じて友達を作るために、同年代・同世代の知人・友人が多くなる。また、実際に同じ教室空間や校区にいなくとも、共通の世代体験や、同じ時期に享受した音楽やファッション、スポーツといった文化によって仲良くなるということもある。このように生活の基盤において共有すると仮定される面が多くあるならば、構造的にも認知的にも、互いの政治的な「こだわり」た「しきたり」を共有しやすい状況にあるだろう。つまり、日常において(社会運動的なものに限らず)サブカルチャーが伝播しやすい構造的な条件がある。本書は、社会運動サブカルチャーを「出来事」と「日常」における、個人的もしくは集合的に行われる世辞的な営みが連関することで共有される、こだわりやしきたり、規範や常識の源泉として捉える。
66-68頁

おそらく筆者はK. マンハイムの「経験の層化」を念頭に置いている。そのうえで、若者を対象にすることの意義を主張している。本書は運動への参加に関心を持つものであるため、そうした社会学の世代論に深く立ち入るわけではない。しかし、同時に、運動に参加する若者による年長世代に対する違和感などについては、長い間研究されてきた世代論として読むのも面白いのかもしれない。年長世代が運動の場に持ち込もうとする奇異な(?)習慣がどのように受けとめられているかについては、ぜひその世代の当事者に本書を読んで頂いて理解を深めてほしい。
私が「よくあることかも」と思って納得したことの一つが、その世代間の認識のずれについてである。

若者たちは場合によって年長者の会合に招聘される側に回ることもある。彼らはカフェやクラブに学者やジャーナリストを招き、専門的な議論を行っていたが、若者たちが体験する限りにおいて、年長者たちの学習会は彼ら自身が主催するものと大きく異なるようだ。
(略)
A12氏(二宮注:年長者の勉強会にスピーカーとして呼ばれた10代)の半生を聞いた聴衆が、彼女の世代なりの体験や、出身地で過ごした記憶、現在の問題意識といったものを聞いて、自分の活動や学習に活かしているかといえば、それも少し異なるようだ。「孫を見る目」「その調子で上手く成長してくれ」といった聴衆の目線は、むしろA10氏の言葉を借りればやや「パターナリスティック」ともいえる、ライフヒストリーの語りをもって「若者」として扱われた彼らは、運動の中で「新しい」担い手として持ち上げられると同時に、無垢であったり、未熟な存在として、時として見下しの視点をもって迎えられることになる。
99-100頁

私の隣接分野である民間教育研究運動の雰囲気を思い出す。自発的に集まった年長者が同じく自発的に参加した若者を批判し始める。本人はまさに「親心」なのかもしれないが、若者からすれば端的に言って「ウザい」。職場でも厭な思いをさせられるのに、なぜ私生活の場でも同じような目に合わなければならないのか。そのうち、若者はその運動を敬遠するようになり、年長者ばかりの運動体になっていく。若者が来ない理由を考えるなどという座談会が行われて、会費を安くしようという案が出される。しかし、当然それはあまりよい解ではないので、ぜひ教育運動の方も本書を読んで頂きたい。
運動の外部に対する訴求方法もまた、若者と年長者とでは異なるようである。

若者たちは、社会運動に参加しづらい理由として、社会運動の「特殊」さ、「へんてこ」な感じ、「異様」さといった言葉を用いる。こうしたイメージは、担い手が年長者中心であることと関連して、若者たちに年長活動家、またどこかで見た/聞いたことのある「古い社会運動」への反発を抱かせる原因となる。そうでない人々もいるものの、多くの若者たちは年長者の用いる「組合の幟」や「『モテたい』ってプラカ」といった、活動の主張とは直接関係ない主張を行うためのアイテムを排除し、つとめて他の運動参加者と「同じ」であり、外からみて「普通」でいられるような空間を作る。
114頁

組織運営も、既存の社会運動組織が徹底し、配慮してきたものとはやや異なる。たとえば会議の運営において、社会運動の理念と大きく異なるようなビジネス書、ファシリテーション本なども参考にすることがあるという
こうした転換は、組織運営に込められた規範も覆してしまう。いわゆる左派やリベラルといった立場にある活動家たちは、平等主義や誰もが水平に参加できる組織運営、多数決によらない、議論によるボトムアップ型の意思決定といった要素を組織運営に込めてきたが、若者たちは必ずしもそうした手続きにこだわらない。
125頁

これらの分析は圧巻で、確かにそうなのだ。関が原の合戦(ほんとうはどうか知らないけど)みたいな幟はない―あったとしても、メディアには写らないような場所での待機。そして、それにも関連してそもそも組織運営の方法が違うのだろう。日本の運動が、特に40年前前後からの諸々の運動体がほんとうに「平等主義」だったどうかは留保が必要であるだろうとはいえ、手続きではなく運動の実質を重視している、そして、それが「普通」の若者に届くように配慮しているというのは、まったくそのとおりである。ただし、同時に、それらのことは運動体の規模に影響されているのではないかという仮説も浮かぶところである。規模が小さいためにその方法が成立するのではないだろうか。たとえば、「ネタ」や「モチーフ」のような符牒に依拠して団体名を決めるというのも、若者固有のことであるのと同時に、小規模だからこそ可能であるようにもみえる。
第4章はタイトルこそ「日常としての社会運動」なのだけれども、実は政治的社会化が課題の中心になっていて、教育学・教育社会学やシティズンシップ論として勉強になった。量的調査で家族や学校による影響を明らかにした研究は複数思いつくものの、お尋ねし難いテーマであるためか質的調査ではあまり見覚えがないためである。

若者たちが政治的に社会化されるきっかけは三つあり、そのきっかけによって関心をもつ主題や周囲との問題共有のあり方が変わってくるため、本章ではその三つのキャリアをカテゴライズした。ひとつは親や学校が比較的平和教育反戦教育、社会運動に対して熱心であるという「箱入り社会派」である。彼らは親や学校から重要とされる政治的課題について考えることを推奨されており、国家や宗教問題といった「大文字の政治」に関心をもつことが多い。それに対して、制服や学校による管理、校則といった周囲の身近な問題から社会に関心をもつものの、そのことを周囲と共有できない「孤独な反逆児」がいる。特に親や学校は政治的なトピックの伝達に熱心でなく、友人も無関心であることが多い。最後に、大学までは無関心であったが、大学での議論や当事者との出会いから政治的な問題に関心をもち始める人々も多くいる。ただ、どの類型にあてはまるにせよ、基本的には「みんなと同じ」「浮かない」ようにしたい、という意識は強くもっていると見受けられる。だからこそ、周囲が運動や政治的な発言に対して積極的であればそれをすることに抵抗がなく、そうでなければ孤独に問題意識を抱えることになる。
207頁

論文ではないので仕方のないことだけれども、現時点から過去を振り返って何かを「きっかけ」だったと言い切ってしまうのは注意したほうがよいかもしれない。あくまでも現時点において当事者がそう思うという認識がわかったのである。このことは読み手が社会学者であれば気にも留めずにそう理解するのだけれども、もしかすると、一般の読者は誤解してしまうかもしれない。自分語りの意味、自己物語論などを想起すると、いつか同じことを尋ねると別の答えが得られるかもしれない。なお、もちろん、紹介される聞き取りデータについては、親や教員との葛藤が丁寧に描かれいて、それほど簡単に影響を受けるわけではない。もし、それほど学校の影響が強いのであれば、二十世紀後半には革命が成功していたはずだという笑い話と同じである。なお、180頁に「高等教育」という言葉が2回出てくるものの、おそらく「高校教育」が正しい。予想・期待される重版の際には、ナカニシヤさん、よろしくです。
もう一つ、教育学・教育社会学として興味深いのは、当事者性に関する指摘である。

本書の分析の結果、若者たちは政治的関心の有無を判断する上で「知識」と「当事者性」を重要視しているようだが、それはなぜだろうか。
(略)
また、当事者性の強調という点では、若者たちが集合行動におけるスピーチや日常のコミュニケーションの中で、自らが政治の当事者であることを主張している点も興味深い。これはシェアハウスや寮でのやりとり、先述した孤独な反逆児たちの身近な問題意識に顕著であるが、日常における家族との戦争にやり取りや「かけがえのない日常」「当たり前の日常」を守りたいというデモでのスピーチなどにも現われている。論理的には「完全に他人の問題だが、関心がある」という動機での社会運動への参加も成立するはずだが、本書で紹介した多くの若者たちは安保問題にせよ、特定秘密保護法案にせよ、「自分にも関連する問題だからこそ関わる」という態度を強く示している。一方で、「非当事者であるが運動に参加する」と主張する人々はほとんどいない。
213頁

この理由についての筆者が提起する仮説は、これもマンハイム同様に明記はされてはいないのだがU.ベックなどの議論を背景としての若者のキャリアに関することがらであるのだが、この説明は私には少し難しかった。SNSで、とりわけ社会運動に対して否定的な若者が「外野がワイワイ言うな」―この場合の外野とは当事者ではないという意味―という表現をすることが気になっていて、どうして「外野」がワイワイ言ったらだめなのか、私はよくわかっていないのである。また、大学生が研究に対して投げかける問いの一つでもある。どうして当事者でもないのに、学者が何かを言えるのか、と。引き続き、私もこうした主張が出される理由を考えてみたい。
ところで、これまで蓄積されてきた若者論との接続を考えてみると、土井隆義による「優しい関係」論がつながるであろうか。土井の言う、他者を傷つけてしまうことをおそれる、他者の気持ちを考えて距離感を保つ、そして、それらは実際のところやや息苦しい、というような心構えである。

たとえば第四章では、卒論や就活を理由に運動を辞め、LINEのグループから抜ける人々と、それに対して深く追求しないメンバーたちの語りを紹介した。この背景には、他人の事情や優先すべきものは、自分にはわからないし、まったく異なる他人に対して「組織」の論理を押し付けるわけにはいかないという「個人化」時代の若者たちの身の施し方があるのではないか。
224頁

最後に、ささいなことだが、先行研究で取り上げられている「政治過程論」について、よくわからなかったので調べてみたい。社会運動論で言及されるそれと、政治学行政学の対象となる、私が一時期勉強していたそれは違うのかもしれない。




社会運動論としては当然だけれども、若者論として、社会運動が「普通」となっている若者論として読まれることを皆さまにお勧めしたい。「絶望の国の幸福な若者たち」で想定されていた若者と比較しつつ。




おまけ:筆者が書いている「マンガを社会学する」、とても面白いのでこちらもぜひ!筆者のことを知ったのはこの企画が先だったかもしれない。細々とマンガ評をしていたので、とても参考になる。みんなもマンガ評をやってみよう。
https://honcierge.jp/articles/manga_sociology

第2新卒の状況についてのもやもや

この数年、調査先の企業でいわゆる第2新卒を積極的に採用しているというお話しを伺う機会が度々あった。確かに、第2新卒に特化した転職情報サイト(たとえば、https://re-katsu.jp/career/)や、同じく特化した有料職業紹介サイト(たとえば、https://mynavi-job20s.jp/)では、魅力的な仕事が掲載されているようである。今年も新卒採用は「売り手市場」のようなので、第2新卒もまた活況なのかもしれない。このような情勢について、新卒採用や中高年の転職等に比べて研究が少なく、何となく気になっているのである。


企業からすれば、前者の転職情報サイトであれば、募集情報の掲載料とエントリーシステムの利用料の合計30万円~200万円/1ヶ月程度を支払う必要があり、その場合には適した人物がエントリーするかどうかはわからない。後者の有料職業紹介サイトであれば、これは私の理解がさらに曖昧なのだけれども、おそらく掲載料やシステム利用料は無料である一方、1人の転職が成功した時点で、その成功を導いた人材紹介コンサルタントへの「成功報酬」として当該転職者の年収の20~30%の費用が発生するはずである。たとえば、年収が500万円であれば、その25%として125万円を企業が有料職業紹介事業者へ支払うことになる。企業からすれば、人材紹介コンサルタントが自社に適する求職者を紹介してくれるので、かつ、前者の転職情報サイトのような不確かさがないので安心である。
しかし、この有料職業紹介事業のビジネスモデルが好ましくないように見えるのは、その「成功報酬」の仕組みが転職を強いることになっていそうだからである。仮に、人材紹介コンサルタント自身の年収が550万円であったとしよう。これもうろ覚えの知識で申し訳ないが、俗に年収の3倍の売り上げが企業の存続にとって必要であるという。少し割り引いて2.5倍だとしよう*1。もし、そうだとすると人材紹介コンサルタントは年間1,250万円の売上げがノルマになる。先ほどの架空の転職事例から得られる報酬は125万円であったから、年間約10人を転職させることがノルマであるといえる。1ヶ月に1人弱の転職斡旋である。以上の試算が妥当かどうかは専門家の意見を聞かねばわからないものの、他者を転職させればさせるほど儲かるのだから、転職する必要のない社会人まで転職させようとすることもあるのかもしれない。
他方、第2新卒当事者にとっては、転職情報サイトの利用であれ、有料職業紹介サイトの利用であれ、実は大学生のときの就職活動より楽であるといえる。細かいことを書かなければならないエントリーシートはあまりなく、グループ面接もないことが多いだろうし、個人面接の回数もそれほど多くはないかもしれない。さらに、有料職業紹介サイトを使えば人材紹介コンサルタントから適切な(そうではないこともあるようだけど)アドバイスを提供してもらえる。そもそも1度は就職しているので、大学生の頃よりも仕事を探すことへの戸惑いは少ないだろう。そのため、私としては最初の就職が必ずしも希望どおりではなかったとしても、第2新卒でのチャンスは少なくないと言いたいところなのである。大学における一部のキャリア教育において、それに学生募集のためにより良い就職状況を宣伝したいという動機が相俟って、大学では最初の就職こそに焦点を絞った動機付けが図られることもあるのだけど、そもそも、いわゆる「終身雇用」が成立していたのはある時期から現代までの、その中でも極めて限られた層にすぎないわけで、もう少し気長にキャリアを構えた方がよいのである。とはいえ、しかしながら、有料職業紹介事業によって、無駄な転職を勧められるかもしれないので、なんだか歯切れが悪くなってしまうのである。


http://www.jil.go.jp/institute/research/2017/164.html
そして、JIL-PTの調査(シリーズNo.164若年者の離職状況と離職後のキャリア形成
(若年者の能力開発と職場への定着に関する調査)を見る限り、これは通説どおりなのだけれども、より規模の小さい企業への転職が多いようである。特に、大卒・引卒では大企業から中小企業への移動は大学・大学院卒の特徴だということである(図表8-4、8-5)。また、私にとって意外だったのは(それだけ私がバイアスのある見方をしていたということなのだけれども)、退職してからすぐに仕事が見つかるというわけではない点である。早期離職であるほど不安定になるようなのだ(図表8-3)。


特に結論があるわけでもなく、もやもやしたことを書いてみた。

*1:バックオフィスをあまり必要としないので3倍は高いという指摘を頂いた

2017年度『若者論を読む』勉強会の開始

学内の一部でお知らせしているとおり、5月上旬から「群馬大学2017年度『若者論を読む』勉強会」を開始します(自主的な勉強会のため単位取得は関係ありません)。第1回の説明会は終了しましたが、参加者は今後も随時募集します。学内の掲示を確認してください。
説明会に参加なさった皆さんのご意向をふまえつつ、最初に


浅野智彦、2011、『若者の気分―趣味縁からはじまる社会参加』

趣味縁からはじまる社会参加 (若者の気分)

趣味縁からはじまる社会参加 (若者の気分)

を読むことにします。少し古い本ですが、今でも若者の感覚を捉えることに成功しているといえるでしょう。

1990年代以降繰り返されてきた若者へのバッシングの一つとして、公共性の喪失とでもいうべきものがあった。若者が、狭い空間に内閉し、公共性を失ってしまったというのである。政治的な関心や投票率の低さ、社会的な常識の欠如、職業意識の衰退、等々の話題がそれに結びつけて論じられてきた。そのような語り方の原型を提供した作家・評論家中島梓は、そいった若者のあり方を指して「コミュニケーション不全症候群」と呼んだ(『コミュニケーション不全症候群』筑摩書房、1991年)。彼女の見るところ、若者たちは、親密な関係に多大なエネルギーを注ぎ、その結果として親密な関係の外部にいる人々を人間扱いできなくなっているというのである。そしてそのような若者のいわば最も先端的な形態がオタクであると中島はいう。
繰り返すが、もしそのようなオタク的趣味においてさえ、若者を社会参加へ押し出す力が内在しているとしたらどうだろうか。その場合、若者が楽しんでいる他のさまざまな趣味を含めて、趣味と公共性との関係についてもう少し別の見方をすることができるのではないだろうか。本書で探ってみたいのはそのような別の見方だ。
といっても、若者の社会参加について楽観的な見通しを示そうというわけではない。本書を読んでいただければわかるように、明るい面とそうでもない面とはまだら状になっている。実際、先にあげた二つの事例にしても、その結末は必ずしも明るいものではない。都の青少年健全育成条例改正案はいったんは否決されたものの、再度の提出によって結局半年後には成立することになってしまった。また秋葉原デモの約1年後、さまざまなパフォーマンスでにぎわったその場所で無差別殺傷事件が起きた。その容疑者もオタク的な趣味にかかわる一人であったが、彼の人生を暴発させた情念が社会参加という形をとることはついになかったのである。
2-3頁


第1回の説明会に参加なさった方の関心に沿うものであるでしょう。月に1度程度の勉強会、楽しみにしています。