年齢とコーホート

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研究室の段ボールを片付けていたら、こんなもの(コピー)が出てきた。

一橋大学前期自治会講義教官評価委員会、1995、『講義教官評価93総集編:一橋大学における学生主催の講義評価の試み』(頒価350円)

いまはそうは言わない「教官」という言葉が時代を感じさせる*1
はしがきにはこう書いてある。

大学の講義は一般的には退屈なものとされる。少なくとも一橋大学前期課程において、この通説を否定できる事例はそう多くはないようだ。これは「大学のレジャーランド化」と指摘される現状と密接にかかわっている。大学は教育機関としての役割を失い、学問を学生に提供せず、受験競争に終えて再び競争社会へ出るまでの息抜きだけを提供している。こう指摘されもする現状を改善しなければならない。これは、現在の大学受験制度や教育体制、ひいては社会の大学偏重といったことまでを含む課題である。そのなかで大学の基礎である講義、特に大学の入口である前期課程における講義の活性化に重要性を見いだして行われたのが本書の「講義教官」である。これは、一橋大学前期自治会講義教官評価委員会が1993年秋から翌年の1月までの間に行ったアンケート調査と、それに対する教官からの返答である。学生主催の講義評価であり、各教官の評価を公表するという点、そして教官からの返答を併せて編集するという点では、おそらく日本で初めての試みではないかと思われる。これは、学長選挙においても学生も一人一票(候補者除斥権)をもっている本学の自由な風土があるからこそ、実現できたものであろう。
大学生には様々な非難の言葉が投げかけられてきた。いわく、「学問の府をレジャーランドにした不届き者」「税金の無駄遣い」「モラトリアム」。学生は社会にたいして負っている責任を自覚すべきであり、その責任逃れをすることはできない。だが今まで、レジャーランド化の原因を社会制度や教育体制などに求めず、学生個人に追求するむきが強かったのではないか。それゆえ、「最近の大学生は勉強しない」と結論づけて問題の解決を先延ばしにしてきたように思える。ただし、これは大学教員への批判というのではない。講義教官評価は、「最近の大学生は勉強しない」といわれる現状をどう解決するのかという議論に学生の視点を加え、広範な議論の発端となることを目的としている。決して、「大学教員(原文ママ)を弾劾」するものや、学生の果すべき責任を問わず一方的に教官を批判するもの、学生を消費者とみなしそのニーズに応える目的のものなどとは、同一視されてはならない。
(略)
学生による講義評価が教授会などの圧力で実行不可能な大学があるなかで、本学の教職員は上記の様に易く(原文ママ)学生に理解を示し協力を惜しみません。このような素晴らしい慣習を築き上げ、維持してきた緒先輩方に敬意を表します。
平成7年 編者

なにやら偉いひとが書いたような文章である。最近では「レジャーランド」論は聞かなくなったものの(そもそも、ほんとうのレジャーランドに行かなくなっているかな、浦安のところ一人勝ちで)、「勉強しない」論はまだよく言われるところであって、20年以上変わっていないこともあるのだ。また、講義を評価するのか、教官を評価するのかが曖昧なことも、実は現在でも混乱していることもあるのかもしれない。なお、類書の、最近では類似サイトの学生による授業評価とは異なって、回答者数が各講義につき数十名と多く、また、教官からのフィードバックが掲載されている。
 興味深いことの一つが、アンケートの設問が現代のそれとよく似ていることである。当時の学生が作成したにもかかわらずである。実は教官が作成していたのではないかという疑念もあるかもしれないが、編者の氏名を見る限り、私にはそのようには思えない。まず、以下の設問A「この講義および担当教官について」、NO(マイナス2点)からYES(プラス2点)までの5件の回答を求めている。声は明瞭である、黒板の使用は効果的である、話のスピードは適当である、講義は要点を抑えていてわかりやすい、講義は一貫性を持っている、年間講義計画は詳細である、学生の理解力を考慮している、質問への対応が丁寧である、講義が教材にとどまらず発展性に富む、現実と関連性にある話もする、学生の知的好奇心を刺激する、熱意が感じられる、この講義を全体的に評価すると?。また、設問B「あなたはこの講義に対して」、それぞれの評語に応じて5件での回答を求める。どのくらい出席していますか、毎回予習はしますか、難易度はどれくらいに感じますか、関連図書を読みましたか。そして、設問C「この講義を受講する理由(2つだけ)」、を選ぶように求める。講義要綱を読んで興味を覚えた、単位取得が楽である、いわゆる「保険」である、先生にひかれた、後期への必修科目である、時間割の都合上、その他。

学生による授業評価は今でも大学教員によって否定的に受け取られることがある。結局は学生を受動的な消費者にする、人格批判や勤務評価に転用されるなどの理由によってである。その否定は確かにわかる一方で、これらの設問を見る限り、声、黒板、スピード、要点等についての学生が感じる問題意識も無視はできないのだろうと思い直すのである。
 もう一つは、自由記述についてである。良い点、悪い点、要望を書くように求めている。各講義について大量の自由記述が8ポイントほどの大きさで列記されている。ここでは、悪い点の一部を抜き書きしてみよう。括弧内の数字は同一内容の記述件数であると推測される。



人文科学系のある講義
少し聞き取りづらい、訳のわからない人には「そうじゃなくてー」の意味が分からない、出席しない人に対して甘い、くどい、ねちねちしている、冷たい、小馬鹿にする、バカに正解を要求する、授業に参加する人数が少ない(分かる気もするが…)、名簿順にあてるので学生の緊張感や熱意が弛緩してしまう(むろん大多数の学生にとっては、「良い点」になるでしょうが)

社会科学系のある講義
声が小さい(2)、ノートがとりにくい(3)、講義が単調で眠い(5)、話が非常にわかりずらい、余談を入れるタイミングの悪さがそれに拍車をかけている、話に抑揚がないので重要なことがわかりずらい、要点がわかりにくい、項目だけを羅列している気がする、時々意味不明、論理の進め方がわかりにくい時がある、先生の頭ではキチッと整理されているのであろうが実際にノートを書くときには難しい一面がある、板書をしない(4)、黒板の使い方が不十分、非効率(6)、十分に理解出来ない概念をも時間をかけて説明してくれない、スピードが速すぎ、ノート取れない(9)、ポイントをさっさと言い流す、**出身の教官であるため**という講義名から推測できる内容よりかなりマニアックだ(二宮注:一部伏せ字にした、以下同様)、カバーする範囲が広いため1つのことに対して突っ込んだ話があまり聞けない(2)、自己満足な講義に陥っている、**にもかかわらずかなり突っ込む部分と全く触れない部分があってムラが出る

社会科学系のある講義
偉そうな話し方(4)、何を求めているのか分からない(2)、板書が少ない、やや難しい、テーマが身近であってほしい、テキストが時代遅れ、レポートの返答が簡単、評価が厳しい、偏見を持っている(2)、嘘をつく、性格が悪い、主観的、頑固、怖い、予習が大変、時間の延長

一般教育科目のある講義
だじゃれが下らなすぎると白ける(原文ママ)、眠くなる

語学のある科目
ききづらい、話すスピードが速い、早口でわかりずらい(4)、発音が悪い、要点を得ない、進度がとにかく速すぎる(2)、むずかしい、(たった1年間しか**をやっていないのに)学生の力を過信している、論文の内容がつまらない(おもしろくもないのに非常に文法的には難解。最低。語学の授業として最低だ。かえって学習意欲をそいでしまう)、無理に**を読ませたこと、テキスト教材が不適当、難しすぎる(4)、テキストの内容が自分(先生)の能力を超えていたらしく途中でテキスト変えた、突然テキストを変えた、テストが難しい、相対評価で落とす、テストで点が悪いとDがつく、夏学期の試験のとき見回りをしないからカンニングをしていた人が多かった(真面目に勉強をしていた人がバカをみる)、辞書を乱雑に扱う点、先生が予習をあまりしていないのか先生自身教材内容をわかっていないらしい、先生が一人で文法の分析をする場になってしまっている、ダラダラ続く論文をダラダラ読むので学習意欲がわかない



あまりにも言いたい放題である(笑。ノートを取ることへの言及については今とは違っているだろうか。ところで、はしがきでは学生は消費者ではないと主張されていた一方で、サービスを受けるという観点からのコメントもあるようだ。私が関心を持った理由は、現代でも同じような主張をよく見かけるからである。そして、特に、それがなぜかボーダーフリー大学否定論の根拠になることを不思議に感じているからである。学生によるこれと同様の書き込みや、ネットメディアによるそれへの言及に依拠してボーダーフリー大学の教育が「だからダメなんだ」と言われることがある。しかし、例示した、おそらくは選抜性の高いであろう大学におけるかつての学生によるコメントを見れば、そうした主張はコーホートによる違いと年齢による違い(と選抜性によって生じる相違の何か)を混同していると指摘できるかもしれない。少なくとも20年、30年単位の時間的間隔の中では、ある時期(コーホート)のあるカテゴリーに入る学生が何らかの特徴を持っているというのではなくて、そもそも学生とはその年齢ゆえに何らかの特徴を持っているといえないだろうか。このように視点を変えてみると、何かできることが増える印象を持っているのである。

*1:本文中で外部との政治団体とのつながりはないことが強調されている。このことも時代を感じさせる。なお、確かに団体としてはそうだろう。ただし、個人的につながりを持っていたひとは僅かであれいたかもしれない。

群馬大学に着任しました

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2月1日付で群馬大学に着任しました。所属は学術研究院で、大学教育・学生支援機構教育改革推進室の主担当です。一橋大学岡山大学日本工業大学茨城大学を経て5校目の勤務となります。これまでの高等教育研究、勤務先における各種の企画や実践をふまえつつ、幅広く柔軟に仕事を進めていく所存です。よろしくお願いいたします。

学校教員の仕事について丁寧に考える

お送りいただきました。ありがとうございます。依然として教師論は(も)不勉強なので、しっかり読む所存でございます。


目次は以下のとおりである。

プロローグ 90年を隔てた2つの出来事―大川小被災と小野さつき訓導殉職
第Ⅰ部 日本の教師たちの今日的な受難
第1章 ある新採教師の被災事件が教えること
第2章 教師1年目は特別に難しくなっている
 第3章 教師たちが置かれた圧迫状況とその背景要因
 第4章 教育改革・教育政策が進める「行政犯罪」
第Ⅱ部 教師たちの仕事柄の歴史的・文化的考察
 第5章 学校教師という存在の歴史的・社会的な特徴
 第6章 教師の教える仕事の意外なほどの難しさ
 第7章 教員文化・学校文化という存在とその働き
 第8章 「文化の共有関係」はどう衰退したか
第Ⅲ部 日本の教師たちのアイデンティティと希望
 第9章 教師には教職アイデンティティが必要である―国際比較調査から
 第10章 日本の教師たちが持つ「教育実践」志向
 第11章 教師の教育活動が教育実践として生きて作用するために
 第12章 日本の教員文化の再構成をめぐる課題―苦難から希望へ

 筆者がまえがきで「それまではむしろ、教師層が持つ特有の体質のようなものにやや批判的な文章も書いていたのだが、90年代半ば以降は(その特有の体質への批判はあっても)いま置かれている状況のひどさのほうが、もっと重要だと考えるようになった」(1頁)と書くように、教員文化研究はもちろん教師のありように対して是か非かを突きつけるという単純な二項対立の評価を持ち込むなどというのではなく、特有の体質ゆえに生じることの結果から、その複雑に絡み合う要素を解きほぐしていく仕事をしてきた。その体質の中には、たとえば1986年の東京・中野区の中学校における事件にみられるように、批判的に論じられて然るべき要素もあったわけではあるが、しかし、90年代半ば以降の社会の多様な変化はもともとの体質とあいまって学校教員という職業を格段に難しくさせたということなのであろう。学校教員に対して、その表層的な一部分だけを取り出して否定的な印象を持っている方々にぜひ読んでほしいのである。
 学校教員が圧迫を感じる背景として、次の3点が挙げられている(59-61頁)。第1に、いわゆる対人援助職と同じように、相手の反応を気遣う必要である。しかも、それは一人だけの反応を見つつ、同時に、教室全体の反応を見ていなければならない。これは筆者ではなく私の印象であるが、勤務時間が終わったから相手のことを考えなくてもよいとはならず気が休まる時間がない。このことは他の職業とは大きく異なるだろう。第2に、新自由主義価値観を持ちつつ、さらに、ごじしんが厳しい生活を強いられているかもしれない、児童、生徒の親によるクレームである。かつてのように先生は立派なのだからすべてお任せしたい、何か要望を伝えるなんてとんでもないという親は減っているのだろう*1。学校のサービス産業化による困難である。第3に、教員を多忙にさせたり、その専門職性を貶めたりする教育政策である。これは、おそらく第2の点と密接に関連していることであって、やや粗雑に言うことをお許し頂ければ、教育行政対教員・家庭と対立枠組みが、教育行政・家庭対教員に変化したということだろうか。確かに、厳しい困難である。
 そして、歴史的・社会的な特徴を考えるということは重要である。このブログでも繰り返し取り上げていることだが、メディアで取り上げられる学校教員の不祥事については割り引いて理解しなければならない。民間企業の従業員が不祥事を起こしてもメディアはあまり取り上げず、他方、公務員、学校教員については報道される傾向があるという固有のバイアスが存在する。そのうえで、そもそも学校教員は数が多いのである。それは、近代国家がその成立のために学校を必要とするからであって、現代では初等中等の本務者だけで100万弱の数である。それに幼稚園、大学・大学院、各種学校専修学校(それらとは一部の重なることもある大学校、塾・予備校、おけいこ…)を加えれば、そして、非常勤、嘱託、派遣等の不安定な雇用による層を加えれば膨大な人数である。この人数の多さが処遇の低さにつながるのである(94頁)。もちろん、不祥事はあってはならないわけではあるが、長時間労働、低賃金(同世代の他業種に比して)、さらには、近年では非正規雇用という制約の中で教員は難しい仕事に従事しているのである。
 学校教員という職業について分析的に捉えるために必読の書である。

*1:テレビドラマ「あばれはっちゃく」の父ちゃんを思い出そう。子どもが問題を起こしたら、どうするか。

形成的な営みとして捉えてみる

学生を思考にいざなうレポート課題

学生を思考にいざなうレポート課題

編者、著者の成瀬先生、崎山先生、児島先生からお送り頂きました。ありがとうございます。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-15K13195/

このプロジェクトの成果物でして、先般は研究会にもお呼びくださいまして感謝しております。また、私の前任校における初年次科目にもご関心を持って頂きまして、とても嬉しく思っております*1

本書は、そうしたレポート課題をどのように設計し、何をどう評価すればよいのかについてまとめた大学教員向けのガイドブックです。レポート課題を軸に考える授業設計マニュアルというこれまでにないタイプのガイドブックです。
はじめにⅳ

本書で対象にしているのは、最終的な成績評価にレポート課題を取り入れている、主に人文系の授業で、何らかのインプットがあるような授業です。そうした授業でどのようにすれば「よいレポート」を多くの受講生が書けるようになるかについて考えていきます。
はじめにⅴ

類書との違いは次の点である。まず、レポートに取り組む学生の視点を重視するということが一貫している点である。たとえば、インターネットを利用した検索が行われることを前提にしている。ネット上で情報、知識をかき集めることは当然であって、本や論文の先行研究をじっくり読むことはあまり想定せず、しかし、それらのことが悪いことであるから咎めようということではけっしてなく、そのうえで意味のあるレポートにするにはどうすればよいかという主張が組み立てられている。また、必ずしも学術的なレポートに焦点を絞っているわけでもない。大学を卒業してから多様な文脈に応じて文章を使い分けられるようになることが必要であるという観点が重視されているようである。次に、教育学の専門用語があまり使われていないことである。高等教育を専門分野とする教育学者(教育心理学、教育工学、教育社会学等を含む)がレポートについて言及すると、どうしても専門用語に依拠してしまって、読み手への配慮が不足してしまうことがある。このことはFDでもお馴染みの光景かもしれない。本書では、それらの専門用語について補論やコラムで紹介されているものの、読み進めるうえで特に理解を深める必要は少ないように思われる。
強く同意したことの一つが、レポートの添削についての見解である。

では、時間を十分使えるなら添削をして返却することがもっとも理想的でしょうか。授業の目的にもよりますが、必ずしもそうとは言えません。誰しも自分が書いたものが赤でびっしり修正されているのは気分のよいものではありません。これは学生のご機嫌を取っているのではなく、「頭を使ってレポートを書く」という目的に照らして考えての話です。赤でびっしりと修正されたレポートをもとに改善するには、よっぽど強いモチベーションがないと難しいでしょう。また、添削して返却することは「どうせ先生が直してくれる」や「自分の書くものはだめなんだ」というメッセージを与えかねません。こうしたことから、もし時間が十分使えるのであれば、添削よりも実際にレポートを読んだことを伝えるコメントに時間を費やした方が効果的です。
(略)
教員の添削が必ずしも効果的とは言えないのは、学生自身がその修正の必要性について理解できているかどうかがわからないからです。その修正部分について「あ、なるほど確かにそう書くべきだったな」という反省が伴うのであればその添削は効果があったと言えます。しかし、修正された部分についてまったく何も考えずに、書き直されたとおりに修正するということも十分考えられます。その場合、その修正は学習プロセスとしては全く機能していないことになります。
87-89頁

私は、とりわけ卒業論文の添削においてこの問題が生じていないだろうかと気になっている。結局のところ指導教員が修正してくれるというだけのことであれば、学生の学習にはつながらない。何も理解を進めないまま文章を形式的に直すということは容易である。あるいは、文のねじれの修正のようないわゆるライティングの上達をそのねらいとするのであれば、その有効な方法は卒業論文の執筆、その添削を受けることではないのかもしれない。何もかもを卒業論文に詰め込めばよいということでもないだろう(その何もかもが卒業論文に含まれているので、何かしらのロマンを感じてしまうことも悪くはないけれども、学生、教職員ともにその負担は過度であるかもしれない)。
ところで、ライティングの何をどの機会に学ぶべきなのかという問いは依然として残されている。近年、ライティングセンターを設置する大学が少しずつ増えてきたものの、いまだに手探りという状況ではないだろうか。

http://www.kansai-u.ac.jp/renkeigp/about/index.html

これは私が外部評価を務める事業に依るものである。こうしたセンターとの連携のあり方についても残された課題は多い。

*1:某フラグ回収。なお、165頁の科研費番号が科研費ガイドブックで紹介されるものになっていておかしいです。

労働法・社会保障法とキャリア教育

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009604943
新谷康浩、2013、「キャリア教育における「非就労」への「まなざし」:キャリアテキストの分析を手がかりにして」『横浜国立大学教育人間科学部紀要. I, 教育科学』15

以前から気になっていたこの論文(そして、一連のキャリア教育研究)に触発されて、キャリア教育のテキストにおいて労働や社会保障に関する法がどのように扱われているのかを確認してみた。


学生のためのキャリアデザイン入門<第3版>

学生のためのキャリアデザイン入門<第3版>

渡辺峻・伊藤健市(編著)、2015、『学生のためのキャリアデザイン入門〈第3版〉:生き方・働き方の設計と就活準備』中央経済社

近年の個人重視の人材マネジメントの普及は、個々人が会社と交渉する状況を推し進め、個人別の紛争を増加させているので、女性差別、権利侵害、不当労働行為、セクハラ、パワハラなどには、1人でも抵抗し闘えるような「政治的能力」が不可欠です。そのためには日本国憲法、労働三法(労働組合法、労働基準法労働関係調整法)、男女雇用機会均等法などの基本的な知識を身につけ、法的政治的権利を自覚的に行使し、自分の政治哲学に従って行動することが要求されます(巻末の「仕事をする上で知っておくべき法律」を参照)。
24頁

本文ではこれ以外に労働法に関する説明はない。巻末に5ページにわたって、憲法労働基準法男女雇用機会均等法、育児介護休業法などが紹介されている。ただし、量が少ないうえに、説明も物足りないかもしれない。法の名称が羅列されているけれども、そこからさらに理解を深めようとするのは難しいのではないだろうか。


理論と実践で自己決定力を伸ばす キャリアデザイン講座 第2版

理論と実践で自己決定力を伸ばす キャリアデザイン講座 第2版

大宮登(監修)、2014、『理論と実践で自己決定力を伸ばす:キャリアデザイン講座第2版』日経BP

特に説明はない。本文中で「ジョブ・カード制度」の説明があるのが特徴的だ。


荒井明(著)・玄田有史(監修)、2015、『キャリア基礎講座テキスト:自分のキャリアは自分で創る』日経BP

特に説明はない。玄田有史なので一つの章を使って「希望」についての説明がある。その中のコラム「立ち止まってしまったとき」で、10行のみではあるものの、各都道府県の労働局や労働基準監督署などの相談機関が紹介されている。


大学生のためのキャリアガイドブックVer.2

大学生のためのキャリアガイドブックVer.2

寿山泰二・宮城まり子・三川俊樹・宇佐見義尚・長尾博暢(著)、2016、『大学生のためのキャリアガイドブックVer.2』北大路書房

また、あなたが働くうえで、当然の権利とその身の安全を守るのに必要な労働の法律や、それらの法律が適正に施行されているかを判断してくれる「労働基準監督署」や、あなたの職探しや職能開発を支援してくれる「ハローワーク」、各種の「職業訓練校」などの存在や仕組みも知っておく必要があります。特に、「労働基準法」など、不当な労働条件からあなた自身を守ってくれる法律、条令などもしっかり学んでおく必要があります。それらは、あなたが大学に在籍していればこそ、容易に学ぶことができます。
28-29頁

これ以外に労働法に関する説明はない。大学における労働法の講義で学ぶことを前提としているようである。また、キャリアカウンセリングのケースが紹介されていて勉強になる。じぶん一人で何でも済ませてしまうのではなく、他者に相談できるということも大事なのだろう。


キャリアデザイン

キャリアデザイン

水原道子(編著)、2016、『キャリアデザイン:社会人に向けての基礎と実践』樹村房

第4章 キャリアデザインと法律(58-73頁)
1. 就職と法律
(1) 正規雇用社員と非正規雇用社員
(2) 労働法から見る正社員と非正社員の違い
(3) 社会保障から見る正社員と非正社員の違い
2. 出産・育児と法律
(1) 出産
(2) 育児
(3) 看護休暇
(4) 児童手当
3. 法律知識をキャリアデザインに活かす

私が望んでいたのはこの内容であった。法律を苦手とする学生であっても読みやすい。特に、社会保険についての説明が充実していて嬉しい。しかも、保険料の労使折半という概念からの問題提起(正社員が支払う保険料は半分で、残りの半分は企業負担であるから得をするようだけれども、そもそも正規・非正規の区別が正当化できるのかという問いまで踏み込んでいる)や、コラム「130万円のカベ」からの問題提起(それが自立を妨げているのではないか)など、学習をその先へ進める仕掛けが施されている。
時間ができれば近著を読んで続編を書く予定である。これらのテキストはキャリアについての「自己責任」を強調するものが多いのだけれども、その問題まで考えられるようなものがあるかどうか。