群馬大学に着任しました

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2月1日付で群馬大学に着任しました。所属は学術研究院で、大学教育・学生支援機構教育改革推進室の主担当です。一橋大学岡山大学日本工業大学茨城大学を経て5校目の勤務となります。これまでの高等教育研究、勤務先における各種の企画や実践をふまえつつ、幅広く柔軟に仕事を進めていく所存です。よろしくお願いいたします。

学校教員の仕事について丁寧に考える

お送りいただきました。ありがとうございます。依然として教師論は(も)不勉強なので、しっかり読む所存でございます。


目次は以下のとおりである。

プロローグ 90年を隔てた2つの出来事―大川小被災と小野さつき訓導殉職
第Ⅰ部 日本の教師たちの今日的な受難
第1章 ある新採教師の被災事件が教えること
第2章 教師1年目は特別に難しくなっている
 第3章 教師たちが置かれた圧迫状況とその背景要因
 第4章 教育改革・教育政策が進める「行政犯罪」
第Ⅱ部 教師たちの仕事柄の歴史的・文化的考察
 第5章 学校教師という存在の歴史的・社会的な特徴
 第6章 教師の教える仕事の意外なほどの難しさ
 第7章 教員文化・学校文化という存在とその働き
 第8章 「文化の共有関係」はどう衰退したか
第Ⅲ部 日本の教師たちのアイデンティティと希望
 第9章 教師には教職アイデンティティが必要である―国際比較調査から
 第10章 日本の教師たちが持つ「教育実践」志向
 第11章 教師の教育活動が教育実践として生きて作用するために
 第12章 日本の教員文化の再構成をめぐる課題―苦難から希望へ

 筆者がまえがきで「それまではむしろ、教師層が持つ特有の体質のようなものにやや批判的な文章も書いていたのだが、90年代半ば以降は(その特有の体質への批判はあっても)いま置かれている状況のひどさのほうが、もっと重要だと考えるようになった」(1頁)と書くように、教員文化研究はもちろん教師のありように対して是か非かを突きつけるという単純な二項対立の評価を持ち込むなどというのではなく、特有の体質ゆえに生じることの結果から、その複雑に絡み合う要素を解きほぐしていく仕事をしてきた。その体質の中には、たとえば1986年の東京・中野区の中学校における事件にみられるように、批判的に論じられて然るべき要素もあったわけではあるが、しかし、90年代半ば以降の社会の多様な変化はもともとの体質とあいまって学校教員という職業を格段に難しくさせたということなのであろう。学校教員に対して、その表層的な一部分だけを取り出して否定的な印象を持っている方々にぜひ読んでほしいのである。
 学校教員が圧迫を感じる背景として、次の3点が挙げられている(59-61頁)。第1に、いわゆる対人援助職と同じように、相手の反応を気遣う必要である。しかも、それは一人だけの反応を見つつ、同時に、教室全体の反応を見ていなければならない。これは筆者ではなく私の印象であるが、勤務時間が終わったから相手のことを考えなくてもよいとはならず気が休まる時間がない。このことは他の職業とは大きく異なるだろう。第2に、新自由主義価値観を持ちつつ、さらに、ごじしんが厳しい生活を強いられているかもしれない、児童、生徒の親によるクレームである。かつてのように先生は立派なのだからすべてお任せしたい、何か要望を伝えるなんてとんでもないという親は減っているのだろう*1。学校のサービス産業化による困難である。第3に、教員を多忙にさせたり、その専門職性を貶めたりする教育政策である。これは、おそらく第2の点と密接に関連していることであって、やや粗雑に言うことをお許し頂ければ、教育行政対教員・家庭と対立枠組みが、教育行政・家庭対教員に変化したということだろうか。確かに、厳しい困難である。
 そして、歴史的・社会的な特徴を考えるということは重要である。このブログでも繰り返し取り上げていることだが、メディアで取り上げられる学校教員の不祥事については割り引いて理解しなければならない。民間企業の従業員が不祥事を起こしてもメディアはあまり取り上げず、他方、公務員、学校教員については報道される傾向があるという固有のバイアスが存在する。そのうえで、そもそも学校教員は数が多いのである。それは、近代国家がその成立のために学校を必要とするからであって、現代では初等中等の本務者だけで100万弱の数である。それに幼稚園、大学・大学院、各種学校専修学校(それらとは一部の重なることもある大学校、塾・予備校、おけいこ…)を加えれば、そして、非常勤、嘱託、派遣等の不安定な雇用による層を加えれば膨大な人数である。この人数の多さが処遇の低さにつながるのである(94頁)。もちろん、不祥事はあってはならないわけではあるが、長時間労働、低賃金(同世代の他業種に比して)、さらには、近年では非正規雇用という制約の中で教員は難しい仕事に従事しているのである。
 学校教員という職業について分析的に捉えるために必読の書である。

*1:テレビドラマ「あばれはっちゃく」の父ちゃんを思い出そう。子どもが問題を起こしたら、どうするか。

形成的な営みとして捉えてみる

学生を思考にいざなうレポート課題

学生を思考にいざなうレポート課題

編者、著者の成瀬先生、崎山先生、児島先生からお送り頂きました。ありがとうございます。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-15K13195/

このプロジェクトの成果物でして、先般は研究会にもお呼びくださいまして感謝しております。また、私の前任校における初年次科目にもご関心を持って頂きまして、とても嬉しく思っております*1

本書は、そうしたレポート課題をどのように設計し、何をどう評価すればよいのかについてまとめた大学教員向けのガイドブックです。レポート課題を軸に考える授業設計マニュアルというこれまでにないタイプのガイドブックです。
はじめにⅳ

本書で対象にしているのは、最終的な成績評価にレポート課題を取り入れている、主に人文系の授業で、何らかのインプットがあるような授業です。そうした授業でどのようにすれば「よいレポート」を多くの受講生が書けるようになるかについて考えていきます。
はじめにⅴ

類書との違いは次の点である。まず、レポートに取り組む学生の視点を重視するということが一貫している点である。たとえば、インターネットを利用した検索が行われることを前提にしている。ネット上で情報、知識をかき集めることは当然であって、本や論文の先行研究をじっくり読むことはあまり想定せず、しかし、それらのことが悪いことであるから咎めようということではけっしてなく、そのうえで意味のあるレポートにするにはどうすればよいかという主張が組み立てられている。また、必ずしも学術的なレポートに焦点を絞っているわけでもない。大学を卒業してから多様な文脈に応じて文章を使い分けられるようになることが必要であるという観点が重視されているようである。次に、教育学の専門用語があまり使われていないことである。高等教育を専門分野とする教育学者(教育心理学、教育工学、教育社会学等を含む)がレポートについて言及すると、どうしても専門用語に依拠してしまって、読み手への配慮が不足してしまうことがある。このことはFDでもお馴染みの光景かもしれない。本書では、それらの専門用語について補論やコラムで紹介されているものの、読み進めるうえで特に理解を深める必要は少ないように思われる。
強く同意したことの一つが、レポートの添削についての見解である。

では、時間を十分使えるなら添削をして返却することがもっとも理想的でしょうか。授業の目的にもよりますが、必ずしもそうとは言えません。誰しも自分が書いたものが赤でびっしり修正されているのは気分のよいものではありません。これは学生のご機嫌を取っているのではなく、「頭を使ってレポートを書く」という目的に照らして考えての話です。赤でびっしりと修正されたレポートをもとに改善するには、よっぽど強いモチベーションがないと難しいでしょう。また、添削して返却することは「どうせ先生が直してくれる」や「自分の書くものはだめなんだ」というメッセージを与えかねません。こうしたことから、もし時間が十分使えるのであれば、添削よりも実際にレポートを読んだことを伝えるコメントに時間を費やした方が効果的です。
(略)
教員の添削が必ずしも効果的とは言えないのは、学生自身がその修正の必要性について理解できているかどうかがわからないからです。その修正部分について「あ、なるほど確かにそう書くべきだったな」という反省が伴うのであればその添削は効果があったと言えます。しかし、修正された部分についてまったく何も考えずに、書き直されたとおりに修正するということも十分考えられます。その場合、その修正は学習プロセスとしては全く機能していないことになります。
87-89頁

私は、とりわけ卒業論文の添削においてこの問題が生じていないだろうかと気になっている。結局のところ指導教員が修正してくれるというだけのことであれば、学生の学習にはつながらない。何も理解を進めないまま文章を形式的に直すということは容易である。あるいは、文のねじれの修正のようないわゆるライティングの上達をそのねらいとするのであれば、その有効な方法は卒業論文の執筆、その添削を受けることではないのかもしれない。何もかもを卒業論文に詰め込めばよいということでもないだろう(その何もかもが卒業論文に含まれているので、何かしらのロマンを感じてしまうことも悪くはないけれども、学生、教職員ともにその負担は過度であるかもしれない)。
ところで、ライティングの何をどの機会に学ぶべきなのかという問いは依然として残されている。近年、ライティングセンターを設置する大学が少しずつ増えてきたものの、いまだに手探りという状況ではないだろうか。

http://www.kansai-u.ac.jp/renkeigp/about/index.html

これは私が外部評価を務める事業に依るものである。こうしたセンターとの連携のあり方についても残された課題は多い。

*1:某フラグ回収。なお、165頁の科研費番号が科研費ガイドブックで紹介されるものになっていておかしいです。

労働法・社会保障法とキャリア教育

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009604943
新谷康浩、2013、「キャリア教育における「非就労」への「まなざし」:キャリアテキストの分析を手がかりにして」『横浜国立大学教育人間科学部紀要. I, 教育科学』15

以前から気になっていたこの論文(そして、一連のキャリア教育研究)に触発されて、キャリア教育のテキストにおいて労働や社会保障に関する法がどのように扱われているのかを確認してみた。


学生のためのキャリアデザイン入門<第3版>

学生のためのキャリアデザイン入門<第3版>

渡辺峻・伊藤健市(編著)、2015、『学生のためのキャリアデザイン入門〈第3版〉:生き方・働き方の設計と就活準備』中央経済社

近年の個人重視の人材マネジメントの普及は、個々人が会社と交渉する状況を推し進め、個人別の紛争を増加させているので、女性差別、権利侵害、不当労働行為、セクハラ、パワハラなどには、1人でも抵抗し闘えるような「政治的能力」が不可欠です。そのためには日本国憲法、労働三法(労働組合法、労働基準法労働関係調整法)、男女雇用機会均等法などの基本的な知識を身につけ、法的政治的権利を自覚的に行使し、自分の政治哲学に従って行動することが要求されます(巻末の「仕事をする上で知っておくべき法律」を参照)。
24頁

本文ではこれ以外に労働法に関する説明はない。巻末に5ページにわたって、憲法労働基準法男女雇用機会均等法、育児介護休業法などが紹介されている。ただし、量が少ないうえに、説明も物足りないかもしれない。法の名称が羅列されているけれども、そこからさらに理解を深めようとするのは難しいのではないだろうか。


理論と実践で自己決定力を伸ばす キャリアデザイン講座 第2版

理論と実践で自己決定力を伸ばす キャリアデザイン講座 第2版

大宮登(監修)、2014、『理論と実践で自己決定力を伸ばす:キャリアデザイン講座第2版』日経BP

特に説明はない。本文中で「ジョブ・カード制度」の説明があるのが特徴的だ。


荒井明(著)・玄田有史(監修)、2015、『キャリア基礎講座テキスト:自分のキャリアは自分で創る』日経BP

特に説明はない。玄田有史なので一つの章を使って「希望」についての説明がある。その中のコラム「立ち止まってしまったとき」で、10行のみではあるものの、各都道府県の労働局や労働基準監督署などの相談機関が紹介されている。


大学生のためのキャリアガイドブックVer.2

大学生のためのキャリアガイドブックVer.2

寿山泰二・宮城まり子・三川俊樹・宇佐見義尚・長尾博暢(著)、2016、『大学生のためのキャリアガイドブックVer.2』北大路書房

また、あなたが働くうえで、当然の権利とその身の安全を守るのに必要な労働の法律や、それらの法律が適正に施行されているかを判断してくれる「労働基準監督署」や、あなたの職探しや職能開発を支援してくれる「ハローワーク」、各種の「職業訓練校」などの存在や仕組みも知っておく必要があります。特に、「労働基準法」など、不当な労働条件からあなた自身を守ってくれる法律、条令などもしっかり学んでおく必要があります。それらは、あなたが大学に在籍していればこそ、容易に学ぶことができます。
28-29頁

これ以外に労働法に関する説明はない。大学における労働法の講義で学ぶことを前提としているようである。また、キャリアカウンセリングのケースが紹介されていて勉強になる。じぶん一人で何でも済ませてしまうのではなく、他者に相談できるということも大事なのだろう。


キャリアデザイン

キャリアデザイン

水原道子(編著)、2016、『キャリアデザイン:社会人に向けての基礎と実践』樹村房

第4章 キャリアデザインと法律(58-73頁)
1. 就職と法律
(1) 正規雇用社員と非正規雇用社員
(2) 労働法から見る正社員と非正社員の違い
(3) 社会保障から見る正社員と非正社員の違い
2. 出産・育児と法律
(1) 出産
(2) 育児
(3) 看護休暇
(4) 児童手当
3. 法律知識をキャリアデザインに活かす

私が望んでいたのはこの内容であった。法律を苦手とする学生であっても読みやすい。特に、社会保険についての説明が充実していて嬉しい。しかも、保険料の労使折半という概念からの問題提起(正社員が支払う保険料は半分で、残りの半分は企業負担であるから得をするようだけれども、そもそも正規・非正規の区別が正当化できるのかという問いまで踏み込んでいる)や、コラム「130万円のカベ」からの問題提起(それが自立を妨げているのではないか)など、学習をその先へ進める仕掛けが施されている。
時間ができれば近著を読んで続編を書く予定である。これらのテキストはキャリアについての「自己責任」を強調するものが多いのだけれども、その問題まで考えられるようなものがあるかどうか。

「専門」「職業」「教養」概念の再構築

現代思想 2016年11月号 特集=大学のリアル ―人文学と軍産学共同のゆくえ―

現代思想 2016年11月号 特集=大学のリアル ―人文学と軍産学共同のゆくえ―

植上一希「『大学の専門学校化』批判の問題性:専門職業大学の創設に関連して」154-163頁

大学による職業教育批判、(大学の)専門学校化批判は(1)大学における職業教育不要論(大学は研究教育の場だ!)*1、(2)知の固定化・狭小化論、(3)選択肢の固定化・狭小化論、これら3点にまとめられるという。特に、(2)は大学で扱われる知識観に関わる、私にとっては切実な論点であるので引用しよう。

〈職業教育においては、とくに専門学校のような特定の職業に対応する実用的な知や現実主義的な知に基づいた教育がなされがちであり、その結果、学生の知の獲得の在り方が偏る・狭まる。〉
〈大学における知の獲得は本来的に自由であるべきものである。産業や職業の要請に対応する知や、現実に対応するための知に、大学の知が収斂されてはならない。〉
教育機関で養成-獲得する知の在り方をめぐって、職業教育における知を固定的・狭小的なものとしてとらえるのが、知の固定化・狭小化論である。大学関係者(とくに人文科学系)の多くが「専門学校的なもの」に対して抱く否定的な感覚は、ここに強く根差していると思われる。
156-157頁

筆者はこれまで実施してきた各種の調査から、とりわけ専門学校生においては経済的資源、学力が不十分という傾向があるとしつつ、専門学校における学びを通じて、特定の職業そのものへの「社会化」のみならず、その職業が埋め込まれている社会に関する認識、社会人としての自己認識をも豊かなものにしていることは明らかであるという。それゆえ、知の固定化・狭小化論、選択肢の固定化・狭小化論は一面的な理解にすぎないとするのである。
話しを大学に戻そう。筆者が明示的に述べているわけではないのだが、私は筆者の主張を「特定の産業や職業に関する知識であっても、もちろんそれが学問的知識を従属的な地位に追いやるわけではないという当然の前提を置いたうえで、学生の『社会化』の現実を見る限り、そうした一見すると直接的に将来の職業につながっているかのような知識の獲得を通じて人間や社会についての理解を深めることになっている」、「大学教員は特定の産業や職業に関する知識ではない、たとえば人文社会科学系の知識であっても、学生の『社会化』の現実を理解したうえで、その生活世界(職業世界を含む)に関わるものとして提示しなければならない」と捉えたのである。次の主張もまた納得できそうなところである。

いまだに「現実の生活に役に立たないことこそ、学問や教養の意義だ」という声をよく聞く。それは極端にせよ、青年・学生の社会化の現実に真剣に向き合わない言い訳として、「教養」や「学問」が使われてはいないか。少なくとも「専門学校化批判」にはそうした傾向が垣間見られる。
161頁

他方、ところで、筆者が繰り返し用いる「(学生に)向き合う」という言葉は、そう簡単には理解することができない。教育学ではよく使われる言葉なのであろう。あるいは、インターネットで検索してみると自己啓発の文脈で頻出するようである(たとえば、「自己と向き合う」)。「向く」のではない、「向き合う」のである。いずれにせよ、「向き合う」とはいったい何をどうすることなのか、よくわからないのである。おそらくは高度な専門職としての初等、中等教育教員が当然に有する技術として「向き合う」が想定されてきたのであろう。しかし、そうではない高等教育機関の教員が「向き合う」技術を身に付けるのはどうすればよいだろうか。
実は前任校の工学系単科大学でこの「向き合う」について解釈の違いに戸惑うことがあった。学生の現実に「向き合った」結果、ある知識を講義で伝達することにする/したという。まさしく「向き合う」という言葉が使われている。しかし、特に工学分野ではそれが実践の場に反映できなければならないのであるが、必ずしもそのとおりにならないということがある。たとえば、当然のように安全管理や技術者倫理について講義で扱って、多くの学生がその試験に合格する一方、いかなる理由であるのか「現場」においてそれが活用できない。「向き合う」ことはいかにして可能なのか、達成したと評価されるのかがわからない。この事例でいえば、教室における、教科書における文字の知識ではなく、身体に関する知(識)、実践に関する知(識)を問題とすれば、評価されるだろうか。


なお、本エントリーの表題は何かの講義の最終課題である(うそです)。

*1:そうであるならば、筆者も主張するように教員養成、医師養成なども否定の対象となるはずである。