形成的な営みとして捉えてみる

学生を思考にいざなうレポート課題

学生を思考にいざなうレポート課題

編者、著者の成瀬先生、崎山先生、児島先生からお送り頂きました。ありがとうございます。

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-15K13195/

このプロジェクトの成果物でして、先般は研究会にもお呼びくださいまして感謝しております。また、私の前任校における初年次科目にもご関心を持って頂きまして、とても嬉しく思っております*1

本書は、そうしたレポート課題をどのように設計し、何をどう評価すればよいのかについてまとめた大学教員向けのガイドブックです。レポート課題を軸に考える授業設計マニュアルというこれまでにないタイプのガイドブックです。
はじめにⅳ

本書で対象にしているのは、最終的な成績評価にレポート課題を取り入れている、主に人文系の授業で、何らかのインプットがあるような授業です。そうした授業でどのようにすれば「よいレポート」を多くの受講生が書けるようになるかについて考えていきます。
はじめにⅴ

類書との違いは次の点である。まず、レポートに取り組む学生の視点を重視するということが一貫している点である。たとえば、インターネットを利用した検索が行われることを前提にしている。ネット上で情報、知識をかき集めることは当然であって、本や論文の先行研究をじっくり読むことはあまり想定せず、しかし、それらのことが悪いことであるから咎めようということではけっしてなく、そのうえで意味のあるレポートにするにはどうすればよいかという主張が組み立てられている。また、必ずしも学術的なレポートに焦点を絞っているわけでもない。大学を卒業してから多様な文脈に応じて文章を使い分けられるようになることが必要であるという観点が重視されているようである。次に、教育学の専門用語があまり使われていないことである。高等教育を専門分野とする教育学者(教育心理学、教育工学、教育社会学等を含む)がレポートについて言及すると、どうしても専門用語に依拠してしまって、読み手への配慮が不足してしまうことがある。このことはFDでもお馴染みの光景かもしれない。本書では、それらの専門用語について補論やコラムで紹介されているものの、読み進めるうえで特に理解を深める必要は少ないように思われる。
強く同意したことの一つが、レポートの添削についての見解である。

では、時間を十分使えるなら添削をして返却することがもっとも理想的でしょうか。授業の目的にもよりますが、必ずしもそうとは言えません。誰しも自分が書いたものが赤でびっしり修正されているのは気分のよいものではありません。これは学生のご機嫌を取っているのではなく、「頭を使ってレポートを書く」という目的に照らして考えての話です。赤でびっしりと修正されたレポートをもとに改善するには、よっぽど強いモチベーションがないと難しいでしょう。また、添削して返却することは「どうせ先生が直してくれる」や「自分の書くものはだめなんだ」というメッセージを与えかねません。こうしたことから、もし時間が十分使えるのであれば、添削よりも実際にレポートを読んだことを伝えるコメントに時間を費やした方が効果的です。
(略)
教員の添削が必ずしも効果的とは言えないのは、学生自身がその修正の必要性について理解できているかどうかがわからないからです。その修正部分について「あ、なるほど確かにそう書くべきだったな」という反省が伴うのであればその添削は効果があったと言えます。しかし、修正された部分についてまったく何も考えずに、書き直されたとおりに修正するということも十分考えられます。その場合、その修正は学習プロセスとしては全く機能していないことになります。
87-89頁

私は、とりわけ卒業論文の添削においてこの問題が生じていないだろうかと気になっている。結局のところ指導教員が修正してくれるというだけのことであれば、学生の学習にはつながらない。何も理解を進めないまま文章を形式的に直すということは容易である。あるいは、文のねじれの修正のようないわゆるライティングの上達をそのねらいとするのであれば、その有効な方法は卒業論文の執筆、その添削を受けることではないのかもしれない。何もかもを卒業論文に詰め込めばよいということでもないだろう(その何もかもが卒業論文に含まれているので、何かしらのロマンを感じてしまうことも悪くはないけれども、学生、教職員ともにその負担は過度であるかもしれない)。
ところで、ライティングの何をどの機会に学ぶべきなのかという問いは依然として残されている。近年、ライティングセンターを設置する大学が少しずつ増えてきたものの、いまだに手探りという状況ではないだろうか。

http://www.kansai-u.ac.jp/renkeigp/about/index.html

これは私が外部評価を務める事業に依るものである。こうしたセンターとの連携のあり方についても残された課題は多い。

*1:某フラグ回収。なお、165頁の科研費番号が科研費ガイドブックで紹介されるものになっていておかしいです。

労働法・社会保障法とキャリア教育

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009604943
新谷康浩、2013、「キャリア教育における「非就労」への「まなざし」:キャリアテキストの分析を手がかりにして」『横浜国立大学教育人間科学部紀要. I, 教育科学』15

以前から気になっていたこの論文(そして、一連のキャリア教育研究)に触発されて、キャリア教育のテキストにおいて労働や社会保障に関する法がどのように扱われているのかを確認してみた。


学生のためのキャリアデザイン入門<第3版>

学生のためのキャリアデザイン入門<第3版>

渡辺峻・伊藤健市(編著)、2015、『学生のためのキャリアデザイン入門〈第3版〉:生き方・働き方の設計と就活準備』中央経済社

近年の個人重視の人材マネジメントの普及は、個々人が会社と交渉する状況を推し進め、個人別の紛争を増加させているので、女性差別、権利侵害、不当労働行為、セクハラ、パワハラなどには、1人でも抵抗し闘えるような「政治的能力」が不可欠です。そのためには日本国憲法、労働三法(労働組合法、労働基準法労働関係調整法)、男女雇用機会均等法などの基本的な知識を身につけ、法的政治的権利を自覚的に行使し、自分の政治哲学に従って行動することが要求されます(巻末の「仕事をする上で知っておくべき法律」を参照)。
24頁

本文ではこれ以外に労働法に関する説明はない。巻末に5ページにわたって、憲法労働基準法男女雇用機会均等法、育児介護休業法などが紹介されている。ただし、量が少ないうえに、説明も物足りないかもしれない。法の名称が羅列されているけれども、そこからさらに理解を深めようとするのは難しいのではないだろうか。


理論と実践で自己決定力を伸ばす キャリアデザイン講座 第2版

理論と実践で自己決定力を伸ばす キャリアデザイン講座 第2版

大宮登(監修)、2014、『理論と実践で自己決定力を伸ばす:キャリアデザイン講座第2版』日経BP

特に説明はない。本文中で「ジョブ・カード制度」の説明があるのが特徴的だ。


荒井明(著)・玄田有史(監修)、2015、『キャリア基礎講座テキスト:自分のキャリアは自分で創る』日経BP

特に説明はない。玄田有史なので一つの章を使って「希望」についての説明がある。その中のコラム「立ち止まってしまったとき」で、10行のみではあるものの、各都道府県の労働局や労働基準監督署などの相談機関が紹介されている。


大学生のためのキャリアガイドブックVer.2

大学生のためのキャリアガイドブックVer.2

寿山泰二・宮城まり子・三川俊樹・宇佐見義尚・長尾博暢(著)、2016、『大学生のためのキャリアガイドブックVer.2』北大路書房

また、あなたが働くうえで、当然の権利とその身の安全を守るのに必要な労働の法律や、それらの法律が適正に施行されているかを判断してくれる「労働基準監督署」や、あなたの職探しや職能開発を支援してくれる「ハローワーク」、各種の「職業訓練校」などの存在や仕組みも知っておく必要があります。特に、「労働基準法」など、不当な労働条件からあなた自身を守ってくれる法律、条令などもしっかり学んでおく必要があります。それらは、あなたが大学に在籍していればこそ、容易に学ぶことができます。
28-29頁

これ以外に労働法に関する説明はない。大学における労働法の講義で学ぶことを前提としているようである。また、キャリアカウンセリングのケースが紹介されていて勉強になる。じぶん一人で何でも済ませてしまうのではなく、他者に相談できるということも大事なのだろう。


キャリアデザイン

キャリアデザイン

水原道子(編著)、2016、『キャリアデザイン:社会人に向けての基礎と実践』樹村房

第4章 キャリアデザインと法律(58-73頁)
1. 就職と法律
(1) 正規雇用社員と非正規雇用社員
(2) 労働法から見る正社員と非正社員の違い
(3) 社会保障から見る正社員と非正社員の違い
2. 出産・育児と法律
(1) 出産
(2) 育児
(3) 看護休暇
(4) 児童手当
3. 法律知識をキャリアデザインに活かす

私が望んでいたのはこの内容であった。法律を苦手とする学生であっても読みやすい。特に、社会保険についての説明が充実していて嬉しい。しかも、保険料の労使折半という概念からの問題提起(正社員が支払う保険料は半分で、残りの半分は企業負担であるから得をするようだけれども、そもそも正規・非正規の区別が正当化できるのかという問いまで踏み込んでいる)や、コラム「130万円のカベ」からの問題提起(それが自立を妨げているのではないか)など、学習をその先へ進める仕掛けが施されている。
時間ができれば近著を読んで続編を書く予定である。これらのテキストはキャリアについての「自己責任」を強調するものが多いのだけれども、その問題まで考えられるようなものがあるかどうか。

「専門」「職業」「教養」概念の再構築

現代思想 2016年11月号 特集=大学のリアル ―人文学と軍産学共同のゆくえ―

現代思想 2016年11月号 特集=大学のリアル ―人文学と軍産学共同のゆくえ―

植上一希「『大学の専門学校化』批判の問題性:専門職業大学の創設に関連して」154-163頁

大学による職業教育批判、(大学の)専門学校化批判は(1)大学における職業教育不要論(大学は研究教育の場だ!)*1、(2)知の固定化・狭小化論、(3)選択肢の固定化・狭小化論、これら3点にまとめられるという。特に、(2)は大学で扱われる知識観に関わる、私にとっては切実な論点であるので引用しよう。

〈職業教育においては、とくに専門学校のような特定の職業に対応する実用的な知や現実主義的な知に基づいた教育がなされがちであり、その結果、学生の知の獲得の在り方が偏る・狭まる。〉
〈大学における知の獲得は本来的に自由であるべきものである。産業や職業の要請に対応する知や、現実に対応するための知に、大学の知が収斂されてはならない。〉
教育機関で養成-獲得する知の在り方をめぐって、職業教育における知を固定的・狭小的なものとしてとらえるのが、知の固定化・狭小化論である。大学関係者(とくに人文科学系)の多くが「専門学校的なもの」に対して抱く否定的な感覚は、ここに強く根差していると思われる。
156-157頁

筆者はこれまで実施してきた各種の調査から、とりわけ専門学校生においては経済的資源、学力が不十分という傾向があるとしつつ、専門学校における学びを通じて、特定の職業そのものへの「社会化」のみならず、その職業が埋め込まれている社会に関する認識、社会人としての自己認識をも豊かなものにしていることは明らかであるという。それゆえ、知の固定化・狭小化論、選択肢の固定化・狭小化論は一面的な理解にすぎないとするのである。
話しを大学に戻そう。筆者が明示的に述べているわけではないのだが、私は筆者の主張を「特定の産業や職業に関する知識であっても、もちろんそれが学問的知識を従属的な地位に追いやるわけではないという当然の前提を置いたうえで、学生の『社会化』の現実を見る限り、そうした一見すると直接的に将来の職業につながっているかのような知識の獲得を通じて人間や社会についての理解を深めることになっている」、「大学教員は特定の産業や職業に関する知識ではない、たとえば人文社会科学系の知識であっても、学生の『社会化』の現実を理解したうえで、その生活世界(職業世界を含む)に関わるものとして提示しなければならない」と捉えたのである。次の主張もまた納得できそうなところである。

いまだに「現実の生活に役に立たないことこそ、学問や教養の意義だ」という声をよく聞く。それは極端にせよ、青年・学生の社会化の現実に真剣に向き合わない言い訳として、「教養」や「学問」が使われてはいないか。少なくとも「専門学校化批判」にはそうした傾向が垣間見られる。
161頁

他方、ところで、筆者が繰り返し用いる「(学生に)向き合う」という言葉は、そう簡単には理解することができない。教育学ではよく使われる言葉なのであろう。あるいは、インターネットで検索してみると自己啓発の文脈で頻出するようである(たとえば、「自己と向き合う」)。「向く」のではない、「向き合う」のである。いずれにせよ、「向き合う」とはいったい何をどうすることなのか、よくわからないのである。おそらくは高度な専門職としての初等、中等教育教員が当然に有する技術として「向き合う」が想定されてきたのであろう。しかし、そうではない高等教育機関の教員が「向き合う」技術を身に付けるのはどうすればよいだろうか。
実は前任校の工学系単科大学でこの「向き合う」について解釈の違いに戸惑うことがあった。学生の現実に「向き合った」結果、ある知識を講義で伝達することにする/したという。まさしく「向き合う」という言葉が使われている。しかし、特に工学分野ではそれが実践の場に反映できなければならないのであるが、必ずしもそのとおりにならないということがある。たとえば、当然のように安全管理や技術者倫理について講義で扱って、多くの学生がその試験に合格する一方、いかなる理由であるのか「現場」においてそれが活用できない。「向き合う」ことはいかにして可能なのか、達成したと評価されるのかがわからない。この事例でいえば、教室における、教科書における文字の知識ではなく、身体に関する知(識)、実践に関する知(識)を問題とすれば、評価されるだろうか。


なお、本エントリーの表題は何かの講義の最終課題である(うそです)。

*1:そうであるならば、筆者も主張するように教員養成、医師養成なども否定の対象となるはずである。

サブカルチャーという言葉から連想されるものではなく

楽しみにしていた書籍が出版された。分野が異なるので読み進めるのに時間がかかってしまったのだが、とりいそぎ1回通読しての所感である。
本書の課題はこうである。

そこで本研究は、イベント「二〇〇八年北海道洞爺湖G8サミット抗議行動」を通じた人間関係の変容と、活動家たちの間でどのようなこだわりやしきたり、規範や常識が伝達され、融合し、ときに衝突するのかを明らかにする。これによって、活動家たちの運動サブカルチャーを形成する文化的コードがいかに形成され、再生産されるのかを検討する。
16頁

そして、「イベント」、「出来事(非日常)」と「日常」、「組織」と「個人」、「動態」と「静態」といった鍵概念を用いながら、資源動員論や「新しい」社会運動論といった従来の分析視覚では捉えきれない現代における運動の性格を解明しようとする。これらのかつての諸概念は拙ブログ主が学部生の頃や大学院生の頃に習ったものであるが、それらでは運動における「個人」のありようを焦点化できないというのである。思い起こせば、確かに2015年のSEALDsによる国会前の抗議行動に集う「個人」(たとえば、日常的な運動には参加しないもの、会社帰り、学校帰りにちょっと寄ってみようかという動機によって参加する「個人」)もまた、社会運動論の学術的なタームでは捉えきれないものであったかもしれない。そういえば、希望のない国だからこそ若者は幸福であるのだからデモなど起こるはずがないという一部の社会学者による展望の読みの誤りも、おそらくまだ総括されていない。

明らかにされたことの要約の一部は以下のとおりである。

しかし本書では、サミット抗議行動を徹底して「イベント」として検討することにより、社会運動の先行研究が捉えそこねてきた、他の社会運動にも共通して見られる要素を浮き彫りにしようとしている。それは主観的な経験に焦点を当ててきた経験運動論もまた捉えそこねてきた、言うなれば「政治的な体験に共通する経験のあり方」である。第四章から第七章までを通じて見られた、性や民族に対する差別をどう処理するかという問題、活動家たちを管理するのか、自発性に任せるのかといった間での苦悩、動員を広げるか、運動の原則を徹底するかといったジレンマなど、本書がサミット抗議活動と、他の集合行動の分析を通じて明らかにしてきた要素は、各章でも言及してきた通り、日本と海外とを問わず先行研究が断片的ながら明らかにしてきた要素と多くのところ重なる。
306頁

さて、細かい疑問点は次のとおりである。第1に、ウッドのいう「熟議」についてである。本書ではボトムアップ型の意識決定を行う組織の中には、運動を進めるための「熟議」が存在することがあるという。そこで、ここでの熟議とは「その手法の意義や目的について納得するまで議論を行う」(133頁)ことを含意していると読める。その場合、それがいわゆる熟議民主義の学説とどこが同じでどこが違うのか、また、いかなる状態を指して「熟議」が行われたとみなすことができるのか、私にはわかりにくいと感じた。第2に、第四章で示される多変量解析の結果についてである。表4-2「組織の性格と次数中心性の関連」(124頁)は274の団体を複数のルールに基づいてコード化した上で回帰分析を試した結果、表4-3-2「重回帰分析の結果」(147頁)は37名の調査対象者の背景を説明変数として回帰分析を試した結果であるのだが、紙幅の都合という問題があったためか、必ずしもその分析に至るまでの過程の説明が十分であるとは言い難いだろう。専門分野の異なる私としては基礎的な分析が紹介されるかとよかったとも思う。第3に、インタビューデータの分析方法についてである。当然のことながら、分析枠組みについては丁寧に説明が行われていて、かつ、この枠組みこそが本書のもとになった博士論文の重要な貢献の一つでもある。他方、最近問われることが多いような方法、データ解釈の妥当性という問題に対してどのように応答したのか気になるところであった。

ともあれ、私がこれまで抱いてきた謎について、幾ばくかのヒントをもらったような気がしている。講義で社会運動に言及すると、学生から拒絶するかのような反応を貰うことがある。政治活動は投票に限定されるべきで、それ以外の方法(署名、投書、陳情、デモ、政治献金・・・)はあまり良くないし、自らが行うこともないという種類の否定的な姿勢である。この良くないという主張の背景を理解できていなかったのであるが、もしかすると、それは運動に関わる人びとのライフスタイルが学生にとっては身近ではなく、それゆえに嫌がるのかとも想像したのである。第七章の活動家二世、ほんらいは活動に反対するであろう宗派の二世による複雑な思いについての語りは、そうした学生のことも思い出させるものであった。

パンドラの箱とは何のメタファーか

大学の「初年次教育」科目がどんどん増殖する理由 大学教育の「パンドラの箱」:初年次教育という憂鬱(3) | JBpress(日本ビジネスプレス)

 

JBpress(Japan Business Press)というウェブサイトに掲載された、児美川孝一郎「大学の『初年次教育』科目がどんどん増殖する理由、大学教育の「パンドラの箱」:初年次教育という憂鬱(3)」(2016年8月25日)という記事が不可解である。

まず、初年次教育の説明が不十分である。児美川によれば初年次教育とは「入学した大学・学部への理解を深め、大学生としての主体的な学びへの姿勢を手ほどきし、文献の読み方、ディスカッションの仕方、レポート・論文の書き方、プレゼンテーションの方法等を伝授すること」であるらしい。確かに、それらは初年次教育の一部ではあるものの、そもそも米国由来のこの概念の力点はそこにあるわけではない。高校から大学への円滑な移行を目的として、学習への適応もさることながら大学生活全般への適応をねらいとするものである。児美川は後者を省略して、前者だけに焦点を合わせた理由を述べないのはなぜだろうか。たとえば、ファースト・ジェネレーション問題やインセンティブ・ディバイドについて知らないわけではなかろう。大学固有の文化に慣れるということは決して容易ではないのである。初年次教育分野の研究をおさえていないのではないか、という疑問を持ってしまう。

次に、リメディアル教育との混同である。児美川は現代における一部の学生を次のように評価する。

学生のレベルが一定水準以上であれば、これだけの内容であっても、それを半期または通年の1科目でこなし、初年次教育科目を、大学での学びへの有効なキックオフの機会として活用することは、もちろん可能であろう。しかし、学生のレベルが一定水準以上という条件が満たされない場合には、どうか。

そもそも初年次教育は、現在の大学には、かつては大学には来なかったであろう学生の層が、大量に入学するようになったという事態に端を発して登場したものである。とすれば、学生のレベルに期待するような条件設定は、はなから非現実的であり、ナンセンスでさえある。そもそも期待できないからこそ、初年次教育が必要になったのである。

「大学には来なかったであろう学生の層」の意味するところは不確かである。もし、高校までに身に付けるべき知識が不十分である層という意味ならば、それに対応するのは初年次教育ではなくリメディアル教育である。そして、十分に身に付けた層に対して初年次教育は不要であるという主張にも読めるのだけれども、だとすると銘柄大学においても児美川の言う初年次教育の導入が進められた理由がよくわからない。

また、銘柄大学においても初年次教育のなかで、FYEのE、つまり経験、課程外のプログラムとして(児美川による規定には入っていないような)対人関係に関するトレーニングを実施しているところもある。そのことも「学生のレベルに期待するような条件設定」からは考えられないとして否定するのであろうか。

児美川の認識の奇妙さは以下の主張にも見られる。

初年次教育が効果を上げないということは、“学生たちの学習意欲を減退させ、学業への不適応を大量に生んでしまうかもしれない”というリスクと裏腹の関係にある。そうした学生の中から留年者や中途退学者が数多く出るようになると、これはこれで別の意味での経営問題となる。

とりわけ、初年次教育を全学的に手厚く実施している機関では、学習意欲の減退によって学業への不適応が生じるという因果関係をあまり想定していないのではないだろうか。そもそも、学習意欲が低い、あるいは、意欲に凹凸がある(じぶんの興味関心外の学習は遠慮したい)ことを前提としているだろう。もし、児美川がそうした機関ではないところについて主張していて、かつ、初年次教育の効果が不足することからそうした因果が発生しているというのならば、それでもなお、それがほんとうに初年次教育の問題なのか、もう少し慎重に検討するべきではないだろうか。教育の効果なるものを安易に見積もるべきではない。

そして、次のような主張からも先行研究を把握しているのかどうか、危惧してしまう。

懇切丁寧で、面倒見のよい指導をすれば、学生たちの知識やスキルの水準を高めることはできるが、彼らの自主性や主体性を引き出すことになるとは限らないのである。むしろ、教えてくれるまで待つという姿勢を身につけさせてしまう。

この課題は、すでに初年次教育学会等で議論されてきて、解決が試行錯誤されてきたものである。また、もう少し言えば、これは初年次教育特有の課題ではない。主体性を強制によって引き出そうという公教育のパラドクスの問題である。どうして、児美川がそれを初年次教育のみに焦点を合わせて論じようとしたのか、その理由はわからない。

最後に、児美川は「初年次教育の狙いは、学生たちを、自ら思考し、判断し、表現する主体的な学びの担い手へと育てることにあった」とするものの、それは必ずしも一般的ではない。研究者間では、濱名篤が繰り返して言うように「主に大学新入生を対象にした、高校からの“円滑な移行”をはかり、学習及び人格的な成長の実現にむけて、大学での学習と生活を“成功”させるべく、総合的につくられた教育プログラム」が初年次教育であると理解されているだろう。「成功」という言葉はいかにも米国的でむず痒くなるところではあるが、これはマーチン・トロウがユニバーサル・アクセスという理念系を示して、その中で主張した「万人の義務」「開放的(個人の選択意思)」に対応するものであろう。ユニバーサル・アクセス、そして、それに必然的に伴う対応を揶揄、拒否し続けることについて、また、この記事に表れている学力観、学校知識観について教育学者の見解を聞いてみたい。