「専門」「職業」「教養」概念の再構築

現代思想 2016年11月号 特集=大学のリアル ―人文学と軍産学共同のゆくえ―

現代思想 2016年11月号 特集=大学のリアル ―人文学と軍産学共同のゆくえ―

植上一希「『大学の専門学校化』批判の問題性:専門職業大学の創設に関連して」154-163頁

大学による職業教育批判、(大学の)専門学校化批判は(1)大学における職業教育不要論(大学は研究教育の場だ!)*1、(2)知の固定化・狭小化論、(3)選択肢の固定化・狭小化論、これら3点にまとめられるという。特に、(2)は大学で扱われる知識観に関わる、私にとっては切実な論点であるので引用しよう。

〈職業教育においては、とくに専門学校のような特定の職業に対応する実用的な知や現実主義的な知に基づいた教育がなされがちであり、その結果、学生の知の獲得の在り方が偏る・狭まる。〉
〈大学における知の獲得は本来的に自由であるべきものである。産業や職業の要請に対応する知や、現実に対応するための知に、大学の知が収斂されてはならない。〉
教育機関で養成-獲得する知の在り方をめぐって、職業教育における知を固定的・狭小的なものとしてとらえるのが、知の固定化・狭小化論である。大学関係者(とくに人文科学系)の多くが「専門学校的なもの」に対して抱く否定的な感覚は、ここに強く根差していると思われる。
156-157頁

筆者はこれまで実施してきた各種の調査から、とりわけ専門学校生においては経済的資源、学力が不十分という傾向があるとしつつ、専門学校における学びを通じて、特定の職業そのものへの「社会化」のみならず、その職業が埋め込まれている社会に関する認識、社会人としての自己認識をも豊かなものにしていることは明らかであるという。それゆえ、知の固定化・狭小化論、選択肢の固定化・狭小化論は一面的な理解にすぎないとするのである。
話しを大学に戻そう。筆者が明示的に述べているわけではないのだが、私は筆者の主張を「特定の産業や職業に関する知識であっても、もちろんそれが学問的知識を従属的な地位に追いやるわけではないという当然の前提を置いたうえで、学生の『社会化』の現実を見る限り、そうした一見すると直接的に将来の職業につながっているかのような知識の獲得を通じて人間や社会についての理解を深めることになっている」、「大学教員は特定の産業や職業に関する知識ではない、たとえば人文社会科学系の知識であっても、学生の『社会化』の現実を理解したうえで、その生活世界(職業世界を含む)に関わるものとして提示しなければならない」と捉えたのである。次の主張もまた納得できそうなところである。

いまだに「現実の生活に役に立たないことこそ、学問や教養の意義だ」という声をよく聞く。それは極端にせよ、青年・学生の社会化の現実に真剣に向き合わない言い訳として、「教養」や「学問」が使われてはいないか。少なくとも「専門学校化批判」にはそうした傾向が垣間見られる。
161頁

他方、ところで、筆者が繰り返し用いる「(学生に)向き合う」という言葉は、そう簡単には理解することができない。教育学ではよく使われる言葉なのであろう。あるいは、インターネットで検索してみると自己啓発の文脈で頻出するようである(たとえば、「自己と向き合う」)。「向く」のではない、「向き合う」のである。いずれにせよ、「向き合う」とはいったい何をどうすることなのか、よくわからないのである。おそらくは高度な専門職としての初等、中等教育教員が当然に有する技術として「向き合う」が想定されてきたのであろう。しかし、そうではない高等教育機関の教員が「向き合う」技術を身に付けるのはどうすればよいだろうか。
実は前任校の工学系単科大学でこの「向き合う」について解釈の違いに戸惑うことがあった。学生の現実に「向き合った」結果、ある知識を講義で伝達することにする/したという。まさしく「向き合う」という言葉が使われている。しかし、特に工学分野ではそれが実践の場に反映できなければならないのであるが、必ずしもそのとおりにならないということがある。たとえば、当然のように安全管理や技術者倫理について講義で扱って、多くの学生がその試験に合格する一方、いかなる理由であるのか「現場」においてそれが活用できない。「向き合う」ことはいかにして可能なのか、達成したと評価されるのかがわからない。この事例でいえば、教室における、教科書における文字の知識ではなく、身体に関する知(識)、実践に関する知(識)を問題とすれば、評価されるだろうか。


なお、本エントリーの表題は何かの講義の最終課題である(うそです)。

*1:そうであるならば、筆者も主張するように教員養成、医師養成なども否定の対象となるはずである。

サブカルチャーという言葉から連想されるものではなく

楽しみにしていた書籍が出版された。分野が異なるので読み進めるのに時間がかかってしまったのだが、とりいそぎ1回通読しての所感である。
本書の課題はこうである。

そこで本研究は、イベント「二〇〇八年北海道洞爺湖G8サミット抗議行動」を通じた人間関係の変容と、活動家たちの間でどのようなこだわりやしきたり、規範や常識が伝達され、融合し、ときに衝突するのかを明らかにする。これによって、活動家たちの運動サブカルチャーを形成する文化的コードがいかに形成され、再生産されるのかを検討する。
16頁

そして、「イベント」、「出来事(非日常)」と「日常」、「組織」と「個人」、「動態」と「静態」といった鍵概念を用いながら、資源動員論や「新しい」社会運動論といった従来の分析視覚では捉えきれない現代における運動の性格を解明しようとする。これらのかつての諸概念は拙ブログ主が学部生の頃や大学院生の頃に習ったものであるが、それらでは運動における「個人」のありようを焦点化できないというのである。思い起こせば、確かに2015年のSEALDsによる国会前の抗議行動に集う「個人」(たとえば、日常的な運動には参加しないもの、会社帰り、学校帰りにちょっと寄ってみようかという動機によって参加する「個人」)もまた、社会運動論の学術的なタームでは捉えきれないものであったかもしれない。そういえば、希望のない国だからこそ若者は幸福であるのだからデモなど起こるはずがないという一部の社会学者による展望の読みの誤りも、おそらくまだ総括されていない。

明らかにされたことの要約の一部は以下のとおりである。

しかし本書では、サミット抗議行動を徹底して「イベント」として検討することにより、社会運動の先行研究が捉えそこねてきた、他の社会運動にも共通して見られる要素を浮き彫りにしようとしている。それは主観的な経験に焦点を当ててきた経験運動論もまた捉えそこねてきた、言うなれば「政治的な体験に共通する経験のあり方」である。第四章から第七章までを通じて見られた、性や民族に対する差別をどう処理するかという問題、活動家たちを管理するのか、自発性に任せるのかといった間での苦悩、動員を広げるか、運動の原則を徹底するかといったジレンマなど、本書がサミット抗議活動と、他の集合行動の分析を通じて明らかにしてきた要素は、各章でも言及してきた通り、日本と海外とを問わず先行研究が断片的ながら明らかにしてきた要素と多くのところ重なる。
306頁

さて、細かい疑問点は次のとおりである。第1に、ウッドのいう「熟議」についてである。本書ではボトムアップ型の意識決定を行う組織の中には、運動を進めるための「熟議」が存在することがあるという。そこで、ここでの熟議とは「その手法の意義や目的について納得するまで議論を行う」(133頁)ことを含意していると読める。その場合、それがいわゆる熟議民主義の学説とどこが同じでどこが違うのか、また、いかなる状態を指して「熟議」が行われたとみなすことができるのか、私にはわかりにくいと感じた。第2に、第四章で示される多変量解析の結果についてである。表4-2「組織の性格と次数中心性の関連」(124頁)は274の団体を複数のルールに基づいてコード化した上で回帰分析を試した結果、表4-3-2「重回帰分析の結果」(147頁)は37名の調査対象者の背景を説明変数として回帰分析を試した結果であるのだが、紙幅の都合という問題があったためか、必ずしもその分析に至るまでの過程の説明が十分であるとは言い難いだろう。専門分野の異なる私としては基礎的な分析が紹介されるかとよかったとも思う。第3に、インタビューデータの分析方法についてである。当然のことながら、分析枠組みについては丁寧に説明が行われていて、かつ、この枠組みこそが本書のもとになった博士論文の重要な貢献の一つでもある。他方、最近問われることが多いような方法、データ解釈の妥当性という問題に対してどのように応答したのか気になるところであった。

ともあれ、私がこれまで抱いてきた謎について、幾ばくかのヒントをもらったような気がしている。講義で社会運動に言及すると、学生から拒絶するかのような反応を貰うことがある。政治活動は投票に限定されるべきで、それ以外の方法(署名、投書、陳情、デモ、政治献金・・・)はあまり良くないし、自らが行うこともないという種類の否定的な姿勢である。この良くないという主張の背景を理解できていなかったのであるが、もしかすると、それは運動に関わる人びとのライフスタイルが学生にとっては身近ではなく、それゆえに嫌がるのかとも想像したのである。第七章の活動家二世、ほんらいは活動に反対するであろう宗派の二世による複雑な思いについての語りは、そうした学生のことも思い出させるものであった。

パンドラの箱とは何のメタファーか

大学の「初年次教育」科目がどんどん増殖する理由 大学教育の「パンドラの箱」:初年次教育という憂鬱(3) | JBpress(日本ビジネスプレス)

 

JBpress(Japan Business Press)というウェブサイトに掲載された、児美川孝一郎「大学の『初年次教育』科目がどんどん増殖する理由、大学教育の「パンドラの箱」:初年次教育という憂鬱(3)」(2016年8月25日)という記事が不可解である。

まず、初年次教育の説明が不十分である。児美川によれば初年次教育とは「入学した大学・学部への理解を深め、大学生としての主体的な学びへの姿勢を手ほどきし、文献の読み方、ディスカッションの仕方、レポート・論文の書き方、プレゼンテーションの方法等を伝授すること」であるらしい。確かに、それらは初年次教育の一部ではあるものの、そもそも米国由来のこの概念の力点はそこにあるわけではない。高校から大学への円滑な移行を目的として、学習への適応もさることながら大学生活全般への適応をねらいとするものである。児美川は後者を省略して、前者だけに焦点を合わせた理由を述べないのはなぜだろうか。たとえば、ファースト・ジェネレーション問題やインセンティブ・ディバイドについて知らないわけではなかろう。大学固有の文化に慣れるということは決して容易ではないのである。初年次教育分野の研究をおさえていないのではないか、という疑問を持ってしまう。

次に、リメディアル教育との混同である。児美川は現代における一部の学生を次のように評価する。

学生のレベルが一定水準以上であれば、これだけの内容であっても、それを半期または通年の1科目でこなし、初年次教育科目を、大学での学びへの有効なキックオフの機会として活用することは、もちろん可能であろう。しかし、学生のレベルが一定水準以上という条件が満たされない場合には、どうか。

そもそも初年次教育は、現在の大学には、かつては大学には来なかったであろう学生の層が、大量に入学するようになったという事態に端を発して登場したものである。とすれば、学生のレベルに期待するような条件設定は、はなから非現実的であり、ナンセンスでさえある。そもそも期待できないからこそ、初年次教育が必要になったのである。

「大学には来なかったであろう学生の層」の意味するところは不確かである。もし、高校までに身に付けるべき知識が不十分である層という意味ならば、それに対応するのは初年次教育ではなくリメディアル教育である。そして、十分に身に付けた層に対して初年次教育は不要であるという主張にも読めるのだけれども、だとすると銘柄大学においても児美川の言う初年次教育の導入が進められた理由がよくわからない。

また、銘柄大学においても初年次教育のなかで、FYEのE、つまり経験、課程外のプログラムとして(児美川による規定には入っていないような)対人関係に関するトレーニングを実施しているところもある。そのことも「学生のレベルに期待するような条件設定」からは考えられないとして否定するのであろうか。

児美川の認識の奇妙さは以下の主張にも見られる。

初年次教育が効果を上げないということは、“学生たちの学習意欲を減退させ、学業への不適応を大量に生んでしまうかもしれない”というリスクと裏腹の関係にある。そうした学生の中から留年者や中途退学者が数多く出るようになると、これはこれで別の意味での経営問題となる。

とりわけ、初年次教育を全学的に手厚く実施している機関では、学習意欲の減退によって学業への不適応が生じるという因果関係をあまり想定していないのではないだろうか。そもそも、学習意欲が低い、あるいは、意欲に凹凸がある(じぶんの興味関心外の学習は遠慮したい)ことを前提としているだろう。もし、児美川がそうした機関ではないところについて主張していて、かつ、初年次教育の効果が不足することからそうした因果が発生しているというのならば、それでもなお、それがほんとうに初年次教育の問題なのか、もう少し慎重に検討するべきではないだろうか。教育の効果なるものを安易に見積もるべきではない。

そして、次のような主張からも先行研究を把握しているのかどうか、危惧してしまう。

懇切丁寧で、面倒見のよい指導をすれば、学生たちの知識やスキルの水準を高めることはできるが、彼らの自主性や主体性を引き出すことになるとは限らないのである。むしろ、教えてくれるまで待つという姿勢を身につけさせてしまう。

この課題は、すでに初年次教育学会等で議論されてきて、解決が試行錯誤されてきたものである。また、もう少し言えば、これは初年次教育特有の課題ではない。主体性を強制によって引き出そうという公教育のパラドクスの問題である。どうして、児美川がそれを初年次教育のみに焦点を合わせて論じようとしたのか、その理由はわからない。

最後に、児美川は「初年次教育の狙いは、学生たちを、自ら思考し、判断し、表現する主体的な学びの担い手へと育てることにあった」とするものの、それは必ずしも一般的ではない。研究者間では、濱名篤が繰り返して言うように「主に大学新入生を対象にした、高校からの“円滑な移行”をはかり、学習及び人格的な成長の実現にむけて、大学での学習と生活を“成功”させるべく、総合的につくられた教育プログラム」が初年次教育であると理解されているだろう。「成功」という言葉はいかにも米国的でむず痒くなるところではあるが、これはマーチン・トロウがユニバーサル・アクセスという理念系を示して、その中で主張した「万人の義務」「開放的(個人の選択意思)」に対応するものであろう。ユニバーサル・アクセス、そして、それに必然的に伴う対応を揶揄、拒否し続けることについて、また、この記事に表れている学力観、学校知識観について教育学者の見解を聞いてみたい。

筆者の博士論文に加筆修正が行われて書籍化されたものである。なお、私は10年前くらいから、単なる性差を意味するのに「ジェンダー(差)」という言葉をわざわざ使う文章を見かけることがある。本書はそれらの文章のように言葉を曖昧に使っているわけではなく、ジェンダー研究(かつ高等教育研究)として位置づけられるはずである。

「女性性」が学業達成といった「業績性」とともに、社会的な資源として機能し、それが社会を生き抜くための「戦略」と考えると、「業績性」「女性性」の双方とも重視せず、「自由」「マイペース」を志向している資格系短大・専門学校の女子学生は、社会経済的に不利になる可能性が考えられる。一方で、上位大学の女子学生に関しては、「業績性」にプラスして「女性性」も身につけており、社会的に非常に有利になるものと考えられる。
(略)
このように、女性内分化の要因としての、主体的で戦略的な「女性性」の利用の仕方は、学業達成によって異なる傾向がある。今回の分析で明らかとなった近年の傾向としては、高い学業達成を手に入れた女子学生は「女性性」も身につけ、学業達成を手に入れなかった女子学生は「女性性」を重視せずに自分らしい自由な生き方を選択する傾向があるということである。それは結果として、社会における成功/不成功を左右することになり、図らずも階層を再生産することにつながっていく可能性が考えられる。すなわち、学歴の高い上位大学の女子学生は、社会・経済的により有利になり、学歴も「女性性」も低い資格系短大・専門学校の女子学生は、不利な位置に追い込まれるという「女性内格差」が生じるのである。女子学生たちは「女性性」に主体的にコミットメントしている。しかし、一方で「女性性」による若年女性の分化は、その「戦略性」ゆえに、女性間の格差を後押しする可能性があるのである。
第4章「女子学生の『女性性』意識に関する実証的研究―ライフコース展望、入学難易度との関連に着目して」
95-96頁

「女性性」は「恋愛」「メイク」「ファッション」に関する変数にして分析した質問紙調査の結果から明らかになったことの一つが上記引用である。経験的には知られていたことであるのかもしれないが、こうしてデータをもとに説明されるととても落ち着かない気分になってしまう。学業達成については、それを教育機関において求めることに不自然はない。近代学校のことわりでもある。他方、ここで言われている「女性性」はどうであろうか。教育機関においては正統な文化ではないという理由で(あるいは、学業達成を阻害するという理由で)、むしろ忌避するべきとされてきたかもしれない。学校文化として学業達成と「女性性」は両立しない、両立させてはならないという規範があっただろう。そうだとして、だからこそ「教育」ならざることがらとして本人の「努力」が問われてしまう、それはすなわち様々な資本の多寡に直接的に影響されてしまう。しかし、その影響を弱めたいからといって「恋愛」「メイク」「ファッション」を「教育」の対象にすることじたいや、その効果についても積極的に評価することは難しい。もぞもぞする、ぞわぞわする、落ち着かない気分が続くのである。
筆者の関心の対象外であるかもしれないが、「男性性」について同じような調査をすればどのような結果が得られるだろう。学部生の頃、ジェンダーのゼミに所属していた私はとても気になるのである。インターネットでは(ここでは言葉を濁しておくけれども、特に外見に関することとして)「男性性」という言葉でまとめられるようなことがらが、人生の何らかの達成と関連しているという話題が冗談交じりに提起されることがある。しかし、それは冗談で済むことではなく、ジェンダー意識とキャリアという重要な論点なのだろう。この研究で示されたように、学業達成との関係や、マイヤーの言う「チャーター」との関係があるだろうか。私の予想は大いにある、である。ただ、これは本書に関して今後の課題となる問題で、「チャーター」の効果(効果があるということに加えて、効果がないということも)を析出する方法が難しい。どうすればよいだろうか。

この話題は以前にも取り上げたことがあるかもしれない。しかし、少なくとも私にとっては重要なことなので、再びまとめてみたい。
大学生の就職活動に関連するお仕事をなさる方が「ミスマッチ」という言葉を使うことがある。「最近、特に若者においてミスマッチが増えてきているようだ」「ミスマッチを防がなければならない」というようにである。mismatch とは「不適当な組み合わせ(のもの)、不釣り合いな縁組み」(出所:WEBLIO英和辞典)の意味であるが、この文脈ではやや異なる意味で用いられる。たとえば、「企業が求める労働者の属性と、失業者の属性が異なるため、労働力需給の質的不適合が起こることをいう。この場合、未充足求人と失業者が併存することになる。年齢間、地域間、職種間、産業間でミスマッチが見られる」(出所:コトバンク
という意味であろう。大学生の就職活動で言えば、職種間、産業間、さらには企業間について指摘されているということになる。そのうえで、さしあたり、私は2つのことが理解できていない。
第1に、では、「マッチ」しているとはどのような状況だろうか。仮に、離転職にまで至らないという外形的な基準で判断できるといえるだろうか。しかし、離転職が少ない理由は個人と仕事が「マッチ」しているからというよりも、企業規模が大きいことや過重労働を強いられない業種であることが理由であると説明されてきたはずである。3年離職率中卒7割、高卒5割、大卒3割という長らく安定して推移してきた数値(二宮 2010)も、就職先の企業規模や業種が卒業学校によって異なることが理由であろう。あるいはまた、仮に個人の内面を理解できれば「マッチ」している状況を特定できるということなのだろうか。とはいえ、この理解が可能であったとしても、個人はそれほど簡単には仕事のすべてに「マッチ」しないような印象を持っている。日々の仕事の中でも「マッチ」する部分と「ミスマッチ」の部分があるし(たとえば、外回りの営業は得意だけれども、帰社後の営業事務が苦手である)、給与・賞与、休日取得、職場の人間関係、職場の環境・衛生(たとえば、タバコが苦手である)などそれぞれに「マッチ」「ミスマッチ」がある。そして、個人は何らかの「ミスマッチ」があればすぐに離転職するというわけではなく、それぞれの「ミスマッチ」にどうにか折り合いをつけて仕事を進めるのではないだろうか。あなたは、今の仕事に対して折り合いなど考えることはまったくなく、ほんとうに「マッチ」しているといえますか。
第2に、「ミスマッチを防ぐために、大学生はしなければならないことがたくさんある」という主張に妥当性はあるだろうか。私がよく聞くのは次のような理屈である。

就職後の「ミスマッチ」を起こさないようにしよう→そのために就職活動をがんばろう→そのために企業研究・業界研究をしっかりしよう/他大学の大学生と友だちになろう/多くの社会人と話す機会を作ろう/たくさんのアルバイト、特に居酒屋などの接客バイトをしよう/インターンシップに行こう/就職情報サイトに登録しよう

そもそも「マッチ」する状況がわからないというのは既に述べたとおりである。そして、大学生の就職活動に関連するお仕事をなさる方は社会人の転職活動にも関わることがあるかもしれないから、つまり、大学生向け就職活動サイトの運営企業は転職者向けのサービスも提供しているから、ほんとうは「ミスマッチ」がたくさん生じて離転職者が増加する方が嬉しいはずである。今は6月、夏の賞与の時期である。転職者向けサービスの広告をよくみかける時期だ。いや、そんな想像はともかくも、理屈として挙げられたことがらが「ミスマッチ」を防ぐことにつながるのだろうか。


http://www.jil.go.jp/institute/research/2007/036.html
JILPT調査シリーズ No.36「若年者の離職理由と職場定着に関する調査」


JILPTの調査結果は、仕事の責任が重過ぎる、仕事量が多すぎる、ストレスが過大である、労働時間が長すぎる、休暇が取りづらい、人を育てる雰囲気がないなどが離職理由として挙げられる割合が高いことを示している。これらのことは、多くの社会人と話す機会、たくさんのアルバイトなどによってほんとうにわかるのだろうか(もちろん、それぞれのことがらに意味がないというわけではなく、「ミスマッチ」を防ぐという目的以外の意味があるのだろう)。また、企業研究・業界研究を〈適切に〉行えば、ある程度はわかることである。けれども、そのことはいわゆる「ブラック企業」を避けるために行うのであって、「ミスマッチ」を防ぐためではないだろう。誰しもそんな「ブラック企業」は嫌なはずだ。
こうしてみると、離転職の多さは個人が自ら解消するべきという想定を置く「ミスマッチ」によるものではなく、働く環境の悪さに由来しているようにみえる。すなわち、職場が組織的に取り組むべきことが等閑視されたまま、立場の弱い求職者、特に大学生にその責務が転嫁されているようにみえるのである。
さて、実はこれまでの話しは来週の就職ガイダンスの宣伝である。企業研究・業界研究を〈適切に〉行う方法について考えたい。「ミスマッチ」「マッチ」についての考察は、前回の就職ガイダンスでシーナ・アイエンガー『選択の科学』という別のアプローチによってもできるかもしれないとお伝えしたところである。複数のクイズを出題したものの、いつものように答えを出さないままにしてあるよね。「ミスマッチ」は事前に避けられるのか、避けるべきと主張されることの背景・前提・根拠は何か、「ミスマッチ」は現代の大学生だけに関係するテーマなのか、避けられないとしたらできることは何か、まだまだ問いは多く残されていて面白い!次のガイダンスをお楽しみに。


二宮祐、2010、「労働市場と進路問題―学卒者の生きる過酷な現実」『図説教育の論点』旬報社